(the_first)使徒ペテロと始祖(the_first)ペテロ

 飯嶋和一氏の著作のひとつに「始祖鳥記」がある。前半の精緻で、学究的とも思える場景描写と、いくつものプロット(場景)が緻密に整理されていくにつれ、読む者に切り迫ってくるような終盤には圧倒されるしかない。大空を自由に舞いたいという人間本来の欲望を実現するという壮大な物語である。一方、ピョートル大帝(一世)は空ではなく、大海を自由に漂うことを望んだ。もちろん、それには軍事戦略上の差し迫った理由があったにせよ、それ以前の本能(欲)がなかったとは言い切れない。その結果として、第一の使徒といわれるペテロに護られた街づくりに邁進した。この街は歴史によって、名を何度も変えざるを得なかったけれども、紛れもなく、もうひとりのペテロが始祖である。ピョートル大帝(以下、大帝)については数多くの書籍、資料などがあり、中でも2メートルもの長身であったという表現が目につく。その割に、手先が器用でもあったらしく、オランダでは率先して造船技術(今でいう大掛かりなテクニックではなく、手先の技のような細事であったように思う)を学んだという記述もみられる。それもこれも、スウエーデン王国との覇権争いにおける攻め手のためであったというのも事実なのであろう。20年間の戦いの末、のちにバルチック艦隊と怖れられた帝政ロシア最強の海兵力を構成した。同時に、北のヴェネツィアあるいは北のパリともいわれるペテルブルクの街を構築した。観光をするのであれば、ニコライ・ゴーゴリの小説で有名なネフスキー・プロスペクト(大通り)をさ迷っていれば事足りるであろう。ただ、わたくしのガイドは四半世紀前のものになるので、ここに記しても、役に立たない。名前もそうだけれども、様も変わっている。わたくしも新たなガイドブックを求める必要があるのだろうか。
 今、勝手に、彼(大帝)を秀吉と重ねあわせ、考えている。ある意味、技術屋、職人気質という共通点を感じている。大帝も、秀吉も智慧の人であったと考えている。もちろん、現世において二人は「逢う」はずはない。秀吉は大帝の100年も前に生きた人であり、現実的には大帝を知ることをできない。ただし、大帝は秀吉のことを知っていたのではないかという妄想は許される。
 デンベイである。
 いくつかデンベイに言及する資料もあり、1702年、謁見し、その場で、日本の情報を大帝に伝えたとされるが、それでは二人が会う必然性がないような気もする。デンベイは1694(元禄7)年にカムチャツカに漂着した。しかし、大帝がデンベイの存在、あるいは、その背後のニホンに関心がなければ、わざわざ、会おうとしたであろうか。想像だが、「ニホン?それって、どこ?」という程度の「薄」識であったのであれば、わざわざ、会うこともなかったろうと考えている。大帝はデンベイを手許に手繰り寄せる以前から日本のことを知っていたフシがある。オランダへの「修業」が深く関わっているのであろう。長崎県のサイトに移る。「日蘭学校交流ひろば」にオランダと日本との関係を端的に記してあるためで、他のサイトでもいっこうに構わない。要するに、大帝とデンベイが遭遇する100年前(1600年)に日蘭は親しい仲にあったということを示したいだけのことである(引用させていただいたサイトには申し訳ないけれど)。当然ながら、自ら、オランダまで「諜報」に赴いた大帝は日本のことについての情報にふれていても不思議はない。函館に1994年に創設されたロシア極東国立総合大学函館校(学校法人函館国際学園専修学校ロシア極東大函館校)のグラチェンコフ・アンドレイ教授が、デンベイについて記されている。『日本への航路を探索』の一部を引用すると、
ピョートル大帝は伝兵衛を招いて自ら彼の話を聞きました。ところが、日本についての伝兵衛の話で、ピョートルが知らないことはすでにありませんでした。ピョートルはすでに外国人、主にオランダ人商人たちから、「日本という国は中国から南の沖合にある豊かな島の国であり、貴金属に恵まれており、人口も多い国である」と聞いていたのです。さらに「日本には大きな街も優れた農業も、鉄砲を使う軍もあるが、この国はオランダ人を除いてほかの外国人とは貿易を行わず、長崎港だけでオランダ人と貿易取引をしている」ということも、ピョートルはすでに知っていました。彼が知らなかったのは日本列島への航路だけでした。》
 デンベイ(現在では、ほぼ伝兵衛と確認されている)以前にロシヤに渡ったとされる日本人の存在説もあるが、これについては、それ以上の記述はできない。やはり、大帝は、物珍しさで伝兵衛に会おうと思いついたのではないという気もちになる。こう書いては、教授に申し訳ないのであるが、大帝が伝兵衛から得る物がなかったとは思えない。また、日本への航路は大帝に尋かれても伝兵衛には答えることができなかったとも想像できる。なにしろ、伝兵衛は望んでロシヤ(カムチャツカ)に向かったのではなく、江戸のつもりが漂流した末のことでしかないという事情もある。冒頭の「始祖鳥記」に風を読む記述がある。始祖鳥は基本的には大型の凧なのである。漁師の風を読む話はおおいに参考となったというような筋であったと記憶しているが、晴れた日においても風の向きを熟知していないと航路は塞がれる(潮もあるけれど)。まして、荒天の中では風は読むどころではない、どこへ連れられていくのか、読めない。それこそ、風任せというのであろう。伝兵衛に日露の航路が分かっていたとは思えないのであるが。
 「デンベイ、ヒデヨシを知っているか」デンベイが知っていないはずはない。ひょっとすると、ノブナガともども、デンベイの伝え聞いた話に大帝がうんうんと頷いていたのかもしれない。
 『日本人 − その名前はデンベイといった − は、実際に1701年にモスクワへ送り届けられ、1702年1月8日にプレオブラジェンスコエ村(訳注:モスクワ郊外)でペートル大帝と謁見した。彼こそはロシアに渡った最初の日本人であった。大帝は、彼の語った日本および千島に関する情報に非常な興味を抱き、1702年4月16日[この日に、大帝が外国人を招聘してヨーロッパ文化をロシアに移植するという有名な勅令が発布された。]、ロシア語とその読み書きを教えると共に、三、四人のロシア人の子弟に日本語ならびにその読み書きを教授させるために、日本国のデンベイという異国人をシベリア局より砲術局へ送致すべしという勅令を発布し、・・・」
 長くなったが、上記は、高野明(たかの あきら)氏の著作『日本とロシア』の中から、カムチャツカ遠征を命じられたウラジミール・アトラーソフの陳述の項を引用したものである。1971年に紀伊国屋新書として発刊され、94年に同社から復刻版が発行されている。
 先生には半年きりしかお教えを頂いていない。あいにく、体調を崩され、後期については同じ高野、こうの雅之(まさのぶ)さんに代わられた。たかの先生は厳格な方であり、特に、わたくしのようなチンピラ学生には厳しかったし、また、「(あなた=わたくしのこと、は)全然ダメだね」という明解な、お考えを明確にご指摘された方である。したがって、前記、著作も、厳格で、明晰さが漂っている。チンピラである、わたくしは、当時、高野(たかの)氏の著作を存じあげておらず、のちに、知る。ただし、出版物については、手許になかった。この項を書くにあたり、いろいろとサイトをほっついていると、「ロマノフ王朝と近代日本」展が両国の東京江戸博物館で開催されていることを知った。今月27日までとあったので、取り急ぎ、行った(20日)。もちろん、デンベイと大帝のことが分かるかもしれないという期待からである。結果だけを書くと、なかった。そのことは仕方ないとして、別の要件でもって、同博物館の7階にある図書館を訪ね、検索用コンピューターを検めてみたけれども、要件に関わる資料は見つからなかった。それでも、書架あたりをぐずぐずしていると、偶然、特別ということなのか、開催中関連図書という棚をみると、10数冊の中に先生の著があった(復刻版)。今、そのデンベイ部分の複写を見ながら、書いている。その最後の2ページに、デンベイ(伝兵衛)の出自について、ふれられている。デンベイの日本報告書「スカースカ」(陳述)最終頁にある(デンベイの)署名の模写である。二通りの解釈がある。引用させていただく。
 『万九ひち屋 たに万ちと本り 立半んにすむ 伝兵衛』(A)
 『万九ひち屋 たに万ちと本り 立川―にすむ 伝兵衛』(B)
 上(A)は九州大学村山七郎教授、下(B)は上智大学服部誠一講師(以上、初版時)の解釈である。以下、著者(高野明氏)の文章である。(ただし、A・Bは便宜的に、わたくしがつけた)
 『・・・(A)となり、大坂の質屋「万九」の若旦那で、谷町通り立半町(現在の大阪市南区谷町七丁目付近;訳注、現在は、南区は中央区)に住んでいたと解釈される。しかし、上智大学(前出)は、(B)と読まれ、「谷町通りにすむ立川伝兵衛」で、立川のつぎの―は、区切りの印ではないかと解釈されている。これは、おそらく後者の方が妥当のように思われるが、いずれにしても従来はデンベイを、伝平や伝兵衛などの宛字で示してきた名前が明らかになったことは意義ぶかいことである。・・・」この項の最後の文章は以下のとおりである。
『この署名が、ロシア最初の日本人として、昨年ゆかりのある出生の地大阪で開かれた万国博覧会ソビエト館に展示されたことも、不幸な漂民の霊にたいするささやかなはなむけであろうか。』
 37年前、わたくしも、そこへ行っている。が、気がついていない、もう、その時点で、「あなたは全然ダメだね」と先生に宣告されていたようなものである。
 ちなみにペテルブルクと大阪市姉妹都市である。おそらく、橋がとりもっているのであろうが、ピョートルと秀吉にもつながった。フロリダ州にセント・ピーターズバーグという町がある。サンクトペテルブルクの英語表記と同一のこの町とは双子都市という関係をもっているそうである。
 また、大坂・谷町通り(筋)に、立半町は存在していたようである。谷町筋の谷町六〜七丁目付近を東西に延びる「はいからほりど〜り商店街」である。はいからは、あとでつけた商店街の意気である。空堀(からほり)とは、秀吉が大坂の町を構築する際、こしらえた惣構えの南の際(きわ)をいう。
 そこらあたりに、デンベイは居た。