ガラス様(大阪天満宮・のぞ記)

 以前といってもおそらく20年ほど前、ある倉敷の工房でずいぶん迷ったけれども買い求めてきたガラスが”あった”。用は一輪挿しであるようだったが、何も挿さずに飾っておいた。全体が深く濁り、しかも鮮やかな青色で発泡が細かく注(さ)した様が暗い室内(工房)に射し込む夕時の一筋の光が映えて、気に入ったのである。うっかりして、今は”ない”。

 大阪天満宮の西門?脇に「大阪ガラス発祥之地」碑が”ある”。

[硝子碑]

大阪天神ガラス発祥画像0038

 建立したのは大阪硝子製品協同組合で設立30周年を記念したものだそうである。
 「宝暦年間に長崎の商人、播磨屋(久米)清兵衛が天満天神鳥居前ニ工場ヲ設ケ、当時ノ玉屋ヲ開業、大阪ガラス商工業ノ始祖トナル」播磨屋は本名久米清兵衛、長崎へ行きオランダ人からガラス製法を学び、天満へ来て玉屋を開き、珍しい色のガラス玉細工を始めている。
 以上、M’HOMEPAGEさんの「大阪市内の石碑発見/北区界隈」から引用させていただいた。
 日本ガラスの歴史は西へ行くほど古いようで、16世紀後半にポルトガル人が長崎に工場を建てたと社団法人東部硝子工業会の「硝子の歴史」サイトにある。もちろん古代より製(つく)られていたが、産業としてのという意味であろう。ただ、彼らが何のためにガラスをというのがよく分からない。その3年後(1573〜天正元年)にはオランダ人の指導によってガラス技術が導入されたと同サイトにある。ただし、異説もあり、以下、長崎文化ジャンクションの長崎ガラスの項(長崎県地域文化推進室)より引用すると、
 『・・・由水常雄「江戸期のガラスー形と技法―」によれば、ポルトガルイスパニアのガラスはソーダ・ガラスであるのに、長崎で作られていたガラスは鉛ガラスである。南蛮のガラス職人が、長崎の工人にガラス製法を教えて、再び日本でもガラスが作られるようになったというのは、実情に反するという。
 当時、鉛ガラスを一貫して作り続けてきたのは、中国であった。したがって、南蛮法が入ってくる以前に、中国流のガラス製法が長崎に伝わっていて、そこへ南蛮のガラス工人が、新しい吹きガラス技法を導入して、いわゆる長崎ガラスと呼ばれる素文の吹きガラスを作り出していったに違いない、というのである。』
 まず、ソーダとか鉛だとかが分からないため上記東部硝子工業会のサイト(ガラスの種類)および日本板硝子テクノリサーチ株式会社(初級編 ガラスの組成と化学的性質)を睨んだが、ますます分からなくなったので、説明は省略する。日本板硝子のほうはアレで初級編かと思うとやはり理系の方を敬うしかない。
 さて、長崎のガラスであるが、由水(よしみず)氏の中国説は「ガラスの歴史」(東硝会)の中にも記述があるが、順番から申せば葡(工場)⇒蘭(技術指導)⇒明朝末期と書かれている。
 《江戸時代に入って寛永年間(1624〜1643)には中国のガラス工が長崎に来てガラスの製法を伝えたという。》という
 繰り返しになるが、歴史的なつき合いから察すれば中国が先である。ただ後者(東硝会)はあくまでも近代産業という条件付きでの考え方なのであろう。少し時代が進むが、1819(文政 2)年、石塚岩三郎は長崎でオランダ人からガラス製造技術を習得し、岐阜県可児郡土田村(可児市)でガラス製造を始めると、その生業を引き継ぐ石塚硝子株式会社の沿革サイトにもあるようにこの頃の日本は色々なことを外国から学ぶ時代であったから、コッチが先で、アッチがあとというようなことではなかったように思う。現在と違い、アッチコッチとの交流が盛んであったということである。只今は物や情報の行き来は頻繁にあるけれども、当時のような技であるとか芸というのか、平たく申せば文化・文明の受け渡しが今よりはるかに活発であったと感心する(だけではいけないのだが)。
 薬もそうである。
 ガラスで話が止まってしまった。次回は天満天神さんにある白太夫社ついて記したいが、本町から宿まで歩いた(大阪・川歩き09年10月12日付)際に寄ってみた道修(どしょう)町の文字をそこで見つけた。