ぬっ垂り

 いつも新潟とサンクトペテルブルクを重ね合わせている。共通点はいくらでもある。大河が街の中心になっていること、そして、その街はかつて泥の中にあって、大掛かりな干拓工事によって、街の容を拵えた。もちろん、2都ともに海に面しており港を有し、かつては国の中心であったこと、気候は厳しい・・・。今、そのことに触れている余裕も力もない。
 「新潟」が成立したのはつい最近のことである。16世紀初めにニイガタという文字があらわれ、拙ブロ越後酒(09年10月31日付)で記したように慶長3(1598)年に堀秀治が入った。ここから少しややこしいのであるが、秀治の嫡男は忠俊で越後転封の2年前に生まれ、11歳(慶長11〜1606年)で父の急逝を受け、藩主を継ぐ。堀家の重臣を奥田直政(天文16=1547年〜慶長13=1608)という。秀治の父(忠俊の祖父)である秀政の叔母(伯母?)婿であり、家老となり、姓を堀と変えた。幼い忠俊の代にはその嫡男直次と弟直竒(なおより)が仕えた。
 お堀様を掘り探ると、きりがないが、結果だけ申せば、直竒は長岡城(藩)を築き、その領内となった新潟を拓いた(元和2〜1616年)。直竒は堺を習ったのだろうか新潟を自由都市として交易を振興し、只今の繁栄の始祖となる。新潟市サイトの「新潟市の歴史」を引用する。
 《近世初期、新潟町は長岡領、沼垂町は新発田領の港町となり、両港は信濃川阿賀野川水系に領分を持つ諸藩や幕領の回米積み出しにも使われました。しかし、沼垂町は河口の変化によって、寛永17(1640)年〜貞享元(1684)年の間に4回も移転し、発展する機会を失います。新潟町は、移転が明暦元(1655)年の1回で,移転後に西回り航路が整備されたこともあり、元禄年間(1688〜04)ごろには日本海側最大の港町となります。》
 少しだけ加えておくと、長岡と新発田の領地を東西に分かったのは中ノ口川直江兼継によるものといわれ、燕市三条市付近で信濃川から離れ(開鑿され)、新潟市南区(以前の白根市および黒埼町あたり)で再び流れを共にしている。前者の分岐点近くに三条市直江町というのを見つけた。これについては、いずれ。
 また、元禄年間に日本海側最大の港となったとあるが、ピョートル大帝によるサンクトペテルブルクの「鍬入れ」は1703年だったと思う(一応、確認〜在サンクトペテルブルク日本国総領事館)。やはり、2都には通じる何かがあるのであろう。
 直竒については拙ブロでふれた(はるか春日08年3月17日付と08年03月16日付白山・さ迷い)。そして、お堀様の掘探りについても引き続き行なっている。

 標題の意味するところは新発田藩に属した沼垂(ぬったり)町のことである。前回のとおり末広がりの町を確かめたのち、宿までの道のりを歩こうと、宛てもなく港をぶらついていた。埠頭からは北海道航路(小樽)もあり、海旅の雰囲気でも味わおうかと振り返ったりもしたが、時間がない。2〜3時間後には陸旅の時刻が迫っている。

[たまには海の旅も・・・]※右写真は遠目にターミナルの記念撮影を。

北海道へ画像0062   北海道ヘェリー画像0061

 仕方なく国道を戻っていると、反対側に、お酒を見つけた。

「越の華」と本家(ほんや)の銘盤にあった。盤を覗き込んでいる最中に突然引き戸が開いて、若ご主人らしい方が出ていらした。こういう時というのは普段にもまして間抜けな対応しかできなくて、とっさに、

「こ、これは、なんと読むのですかねぇ、こ、こしの・・・」というしかなった。

「・・・」

「『こしのはな』です」と、数秒の沈黙を経て、答えられた。

「そ、そうですよね。」

「今年はまだ、新酒ができていないのですよ」と、若ご主人は向かいにある工場に消えていく合間にそう云われて、一礼をされた。

[越の華]

越の華2画像0066 越の華画像0067

 気がつくと、わたくしは「沼垂」の中にゐた。(続く)