琉球留記?琉球が織りなす

 前回(8月11日)の続きである。最初に、訂正を。御人柱に関わることで、海津町の「若宮さま」について書いたけれども、正しくは、海津市の、であり、町ということに、こだわれば、(合併前の)旧平田町勝賀地区に伝わるお話であった。
(お詫びに(..))海津市のHPから治水のあしあとを掲載する。その中にある治水神社には宝暦治水といわれる大規模な工事にかかわり、多くの犠牲者を出した薩摩藩士を祀っている。当時の総指揮(総奉行)を担っていたのが同藩家老の平田靱負(ひらた ゆきえ)(鹿児島県港湾・空港整備事務所サイトより)である。1955(昭和30)年のいわゆる昭和の大合併時に、旧今尾町と旧海西村が合わさる際、彼の名をとって、平田町としたという説もある。毎年8月10日に開かれる「大池まつり」は人柱となった庄屋の佐平治(あるいは左平次)さんに感謝するものでもある。
 さて、本日(7月6日)より再開した那覇市歴史博物館を訪ねたことについてである。1周年記念展は那覇士族『貝氏』(ばいうじ)の系統にある福地家所蔵の衣裳などがきらびやかに飾られていた。(7月6日〜9月17日「おしゃれ・モダン 王国の技〜那覇士族『貝氏』福地家伝世品」)
 同館の主幹・学芸員である宮里正子氏が琉球新報に載せられた原稿がある。『時を越えて伝えるもの』(新報07年8月4日付)少し、引用させていただくと、
 《那覇士族として最高の役職「御物(おもの)城(ぐすく)」に2人も就いた、富裕な福地家に大事に保管されていた、最高の技術で製作された紅型や絣(かすり)織りの衣装などである。》
 とある。
 那覇士族とは、首里、久米、泊とともに、かつて存在した富裕な(宮里氏の表現による)層であり、当然ながら、普通の民と異なる暮らしぶりがあったが、《福地家の人々の沖縄文化への熱い思いによって、戦中戦後の困難な時代も守られてきた品々》(宮里氏)であることが、わたくしどもと異なるのかもしれない。たいへん、大雑把にいうと、本土では、地方へ行けばいくほど、そのような希少な品が残っている確率が高い。ひとつには、前の戦時下で、暮らしに困った都市生活者(当時の)が衣服や身の回り品を米や野菜と換えたという事情(買い出し)がある。また、いわゆる空襲(たむ・たむページより)は軍需工場・施設の所在する都市近辺に集中したためという背景もある。(もっとも、都市への空襲は次第に軍需との関係が稀薄になり、むしろ人家の密集する地域へと繰り返され、特に東京市街地へ頻繁に落とされるようになった)もちろん、例外はあるけれども、以上のようなことから、結果として、希少品は都市から地方へと移動(疎開)するか、都市においては消失した。会津若松に何度か行っていた頃、民家の蔵が開けられて、所蔵(収納)している品々が盗まれるという事件が頻繁にあった。若松城鶴ヶ城)は1965(昭和40)年に復元・再建されているが、1874(明治7)年に政府により廃城・取り壊しされたためであり、若松には空襲はなかった。したがって、この街の蔵内には希少品が残っていたのであろう。(若松(鶴ヶ)城の歴史)(会津若松観光公社)
 琉球の場合、全土が空襲、陸襲である、希少品が残っていること自体、稀少ということかもしれない。歴史博物館の「衣裳たち」はそういう事情をくぐり抜けて、今がある。
 福地家の祖先が仕えていたという御物城については「那覇港内の小島(現在は那覇軍港)にあった王府の倉庫。海外との貿易品などを収めた。十五世紀中期ごろから史料に見える。長官は鎖之側(註:さすのそば、言頭に「御」を冠して、おさすのそば、とも記す)。海外貿易の衰退により十八世紀初期にはすでに廃されていた。」(沖縄コンパクト事典:琉球新報社編)とあり、電子地図及びグルグルアースで確認すると、那覇軍港(米軍基地内)の先端にその名残りがある。もちろん、中に入ることはできない。福地家のご先祖も、おそらく、そこに仕えていたのであろう、那覇からなので、そう遠くない通勤であったに違いないけれども、当時は小さいといえども、島であったから、もしかしたら、仮宿舎などもあったのであろうか。
 「300年前の那覇」というサイト(沖縄県立図書館収蔵)が見つかった。現在の那覇市の大半が海であり、前日(5日)訪れた奥武山公園辺りもそう(海の中)である。だから、くじら公園(子供の遊び場)なのだろうか?余談であるけれども慶良間諸島では冬の間クジラ見物ができるということで、夏とは異なった趣きの海があるようである。
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 1年半前に訪ねた際には、「包む」が、わたくしの心のかなりの部分を占めていた。泡盛および抱瓶(ダチビン)という二品からの単純な発想でしかないけれど、そのことは、只今でも変わることはない。さらに、今回は「織」が加わったような気もする。わたくしには博物館の衣裳も含め、織物については何も分からない。ただし、織物がタテとヨコの交互の組み合わせによる成形物であることは何かで知っていた。時間というタテと空間というヨコを織れば宇宙になるのであろうか。人と自然を縦横に織れば破壊になるのであろうか。そして、人と人とでは、憎悪、愛情、そして、戦争という織物が成形されるのであろうか。
 わたくし的な身勝手な想いであり、そう書くと、おそらく、琉球の方から、(神をおろそかにしていると)お叱りを受けるかもしれないが、琉球というのは、人と神の織りなす世界であると考えている。双者によって形成(かたちづく)られた織物は誰の目にも美しく、誰をもが心を魅入られるような神聖さを備えていたのであろう。それが、琉球の姿である。ただし、その美を欲しがる誰か(わたくしども)が、神聖さ及び琉球の民の心を踏み躙(にじ)って、奪い合っているということも、先に書いた人と人の形成という撚糸の渦に(望んでいないにもかかわらず)巻き込まれているという事実である。
 そういうふうに、歴史博物館の衣裳たちの、一本一本の糸をのぞき込んでいた。織物については分からないけれども。
 次回(琉球留記?;おそらく)は、その一本の糸を考えてみる。