琉球留記?焼(やち)物(むん)

 わたくしは焼物(陶器、磁器など)については分からない。
 目利きの世界では、日本料理(和食)は器で食べるともいわれる。ただし、器を食べるということにはならないようである。以前、石を食べるということを聞いたことがあるけれども、おそらく岩塩かそれに類したものであろうか、また、土の類を食す習慣は今でもあるとも聞いた。よほど、環境のすぐれた場所でないと、そうもいかない、とも思う。
 那覇の宿から市場周辺を抜けると、すぐに壺屋の焼物街があり、これまでにも何度かその前を通っている「壺屋焼物博物館」を初めて訪ねた(4日)。大きな施設ではない、だから、いつでも「行ける」というスキが心の中にあったのであろう、これまで行っていないのがおかしいぐらいである。東京あたりの琉球料理屋さんに行き、(オリオンビールのあとに)泡盛を頼むと、必ず聞かれるのが、からからか抱瓶(だちびん)かであるが、いずれもヤチムン(焼物)である。前者は薩摩焼黒千代香または黒茶家〜くろじょか)にもあって、極端にいえば、土瓶蒸しのドビンのような什器であり、これは全国かしこにある。ただし、からからにはジョカや土瓶のような把っ手がない。したがって、うっかり手を滑らすと、折角のおご馳走(泡盛)が台無しになる危険性があり、また、器自体が熱くなるので燗には向いていない。もっとも、琉球ではその(燗をする)必要性はほとんどない。(2月時分の寒い時季〜10℃台〜に呑まれている方がいらっしゃるけれども)※薩摩焼などにも把っ手なしがある
 琉球の焼物の歴史は壺屋だけではない、本島はじめ、各島嶼にもあって、もちろん、大陸伝来なのであろう。同博物館で展示及び10数分ほどの大画面スクリーンによる歴史を学んだつもりであるけれども、何も憶えていない・・・。したがって、他所様のサイト(『大地が育んだ用の美』〜沖縄県)をもとに、少し記すと、琉球に焼物が根づいたのは15〜16世紀であるらしく、当時は那覇近辺のみならず、本島全域に点在していたようである。もともと、焼物というのは暮らす(食べる、呑む)うえでの器としての「用」が主であるから(それ以外に信仰的な器もある)、それ以前(窯がない)は大陸や日本から輸入もされていたともある、まだ、琉球が統一されていない時代であり、それが、統一とほぼ同時期に自前の窯ができ、ヤチムンが作られ、17世紀末に壺屋の地に窯を統合したとある。理由については展示の中で、「琉球の重要な輸出品として、統制された」という記述があったようにも記憶している。もちろん、以上の記述には「土器」という歴史は含まれていない。
 1時間ほど館内にいて、暑いのを承知で屋上に出てみた。古窯跡が移設されていて、その横に神社がある。両脇にシーサーが座していて、失礼かとも思ったけれども、撮らせて頂いた。シーサーについては、『沖縄コンパクト事典』(琉球新報社・編)の同項を引用させていただくと、「魔除けの獅子像。寺社や城の門、御獄(注;うたき)、貴族の墓陵、村落の出入口などに置かれ、明治以降、瓦葺きの屋根の普及で屋根の上に置かれるようになった。火伏、悪霊払いなどの意味が込められる。今では沖縄観光のシンボルの一つともなっている。」とある。確かに、一般の住宅においても門前に置かれる場合と屋根とに分かれており、住宅事情も関係しているのであろうか、那覇市内では、門構えのない家屋も少なくないため、屋根に、という場合も多いように感じられる。同事典の明治以降の説明にある火伏というのが面白い。屋根の普及とともに「うだつ(〓・卯建)」(拙ブロ05年6月12日付)の役割をも担わされたシーサーさん、なんだか、忙しいね。

[左シーサーさん](壺屋焼物博物館の屋上にある神社にて)
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[右シーサーさん]
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 屋上から、真っ青に晴れた空を見上げ、街を望むと、護られている、と、感じたのは、単なる、わたくしの幻想であろう。

[壺屋のまち?]
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 先の映像(博物館)で、琉球が焼(焦)土の中で、最初に復興したのが壺屋であると知った。上記サイト(大地が育んだ用の美)には、
「壷屋から沖縄復興の炎が燃え上がった」とある。
 琉球には器を食べさせられていた時代があるのかもしれない(もしかしたら、今も)。器で食べるなどという悠長なことは言っていられない、そう思いながら、山羊料理屋さんや定食屋さんで器を眺めていると、「用」という言葉が輝いていた。