シーメンス ∪ ジーメンス(Siemens)

 のっけからでなんではあるが、富士電機という会社とわたくしとは日常的にあまり関わりがないと思っていた。会社の規模からみれば、今はお子様である富士通の方がより肥大化しており、(子)フジ>ニッポン(親)や(親)京成<TDR(子)のような関係になっている。
富士電機ホールディングス8400億円(連結):富士通4兆8千億円弱(連結)
フジテレビジョン3700億円台:ニッポン放送300億円弱
京成電鉄700億円:オリエンタルランド(TDR)2700億円
(各社IR情報などを参考にした。富士電機H、富士通以外は、非連結=単体決算、いずれも05年3月期決算) 
 もう古い話になりつつあるけれども、いわゆる「敵対的TOB」においては、親と子の逆転関係について、ずいぶん前から生じていたにもかかわらず、それを放置してきた企業(親)の責任も少なくない、過例の騒動では「きっかけはニッポン放送」ということになるのであろう。さて、わたくしという、とても狭い世界に限ってみれば、富士通とは以前、FMVを用いていたということ以来、お付き合いはないはずだけれど、富士電機とは日常的に接触する機会が意外とあった。例えば、自動販売機(富士電機リテイルシステムズ株式会社)で足攣りに効果のあるココアを求めたり、例えば、ぼぅっとしていて道端の電信柱にぶつかり、思わず見上げると、配電盤(富士電機機器制御株式会社?富士電機システムズ株式会社)が、わたくしのことを哂っていたり、といったような場面において、でくわしている。しかし、富士電機という会社は存在しない。以上のような会社「たち」が集まってホールディングスを形成しているらしい。ただし、サイト内を検索すると、単に富士電機?と表している場合も多いし(リンク先URLはホールディングスにたどり着く)、地域会社の中には○凹(地域名)富士電機?と称していることもある。子が親を抜くというのは美徳なのだか、また、その反対なのか、よく分からないが、ともかくも富士通富士電機を抜いてしまったようであるが、これもあれも、時代の流れであるのだから、仕方のないことであろうか。さて、標題のシーメンスか、ジーメンスか、というのは、上記のような回りくどい駄文がなくても説明できることではあるが、もはや富士電機を知らないお方もいらっしゃるかと思い、うだぅだと書いてきたが、実は、拙ブロ「ドレミファソラシドれっしゃ」の中で、シーメンスのVVVFという表記をしたあと、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』のシーメンスの項を確認すると、シーではなく、ジーであるという解説があった。確かにそのとおりなのであろう。しかし、一般的には英語読みに引っ張られてシーメンスと呼ばれるものだから日本法人もシーメンス・ジャパンと半ばあきらめている様子である。さらに、ウィキペディアの同項を下のほうに移動すると、関連企業の中に富士電機の名を見つけることができる。それを、クリック(WIKIの富士電機ホールディングスの項に)してみると、以下のような件がある。(一部、省略した)
富士電機命名に際して古河電気工業の「ふ」とドイツのジーメンスの「じ」を一音ずつ取ったことによる。漢字は富士山をイメージできるところからこの表記となった》とあり、このことで、シーメンスジーメンスかは明白となろう。シであったのなら、フジ(FU+JI)電機ではなく、フシ(FU+SI)電機と名乗っていたはずである。さらに、《社章は、○の中に小文字アルファベットの“f”と“s”を組み合わせたものである》とも付け加えられているので、富士電機Hのサイトから拝借してきた。
↓[富士電機製造株式会社時代1923(大正12)〜78(昭和53)年までの社章]
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 96年にドイツで刊行され、03年に『江戸・東京の中のドイツ』(講談社学術文庫)という和訳(安藤勉氏・訳)となった、著名な「日本通」学者であるヨーゼフ・クライナー氏の著作に、FUとJIについての一章がある。《第五章 万延元年の未解決刺殺事件》、章の名は原作ではどうであるのか分からないけれど最初の5文字だけみると、ほかの作品を連想してしまうけれど、この時代はまさに激動の中にあって、副題にもなっているヒュースケン暗殺をめぐる江戸・東京の張りつめた空気がクライナー氏の文章から伝わってくる。同章に富士電機の成り立ちについてもふれられており、古河財閥の基礎ともなった旧足尾銅山に日本で初めて水力式発電機を導入したのがきっかけとなり、古河と発電機を納めたジーメンス社との関係が深まっていき、FUとJI(正しくは、SI)の合弁会社ができたと記されている。ついでに書けば、第六章はこの1日に集まりのため出かけた日暮里(谷中)について、あるいは七章にはイザベラ・バード女史の著作『日本奥地紀行』にも登場する小シーボルトなどの名も出てくる。
 拙ブロ05年6月15日付の「言葉は生きている(変わる)」で書いたことは言葉は生きている、したがって、時代によって、あるいは表わす人によって変わっても仕方ないことだろうということであるが、その考えからすれば、(わたくしの中では)シーメンスだろうと、ジーメンスだろうと、ズィーメンスだとしても、どれでも良いのではないかということになるが、以上の富士電機命名顛末を考慮すると、やはり、ジーかズィーにすべきなのかなぁ、とも思う。ただ、言葉はやはり生モノであり、あまり、こだわってもイケナイ部分もあろうが、あまりコダワラナイのもなんである。
 ◆行なう⇒行う
 ◆一所懸命⇒一生懸(→県)命
 ◆活かす(活用する)⇒生かす
 もう、今では当たり前になりつつあるけれど、もう少しこだわっても良いような気もする。その一方で、人名にはかなりコダワルため、しばしば裁判沙汰にもなるし、地名についても、今回の市町村合併騒ぎにおいて、かなりコダワリ(無意味な論争も多かったが)があったことを思うと、こだわった方が良いのか、まぁっ、適当にと構えるほうが無難なのか、わたくしには、もう、さっぱり分からないのであるが、本音に近いのは、やはり、まぁっ、の方であろうか。したがって、拙ブロのシーメンスジーやズィーに変えようという気はまったくない。
 でも、「李承●(火に華)」はないだろうねぇ。ネットでニュースを見るたびに、菀、と、表記できるのにと、その割り切り方に、少し、落※(月に旦)している。言葉はむずかしい。