メグロのタヌキ

 西運は、お七の供養のために、日ごと、行人坂・明王院(または目黒不動尊とも)より、浅草観音までの道を歩いたと伝えられている。往復40キロを休まず一万日行(業)したともいわれている。27年間、続けて、ようやく、満(万)願を得たという。只今の最寄りを検めると、東急目黒線「不動駅前」〜都営三田線三田駅」〜都営浅草線「浅草駅」というのが、駅探(ekitan)による最速経路で、所要時間は34分とある(ちなみに料金は380円)。単純に、往って、復えるとして、ザッパに計算して、1時間で「一日行」、1日で「二十四日行」、約417日、1年と52日で叶う(計算に自信はない)。これですら、行なうつもりはない日数であるけれども、西運はほぼ人生の残りを懸けた。火事(と喧嘩)は江戸の華ともいわれるが、それによって生まれた空(あだ)花も多い。お七もそうだし、振袖火事に伝わる三人の娘たちもそうなのであろう(事実かどうか、そのことは、どうでもよい)。
 『黄金餅』というお噺は、五代目志ん生師匠が得意としていらした、らしい。手許の「志ん生の噺4/長屋ばなし」(ちくま文庫)の中にあった。下谷山崎町(現在の北上野あたり)の長屋に西念という僧が住んでいて、隣に、金山時味噌を売って糊口をしのいでいる金兵衛がいた。死に際に、西念はこれまで蓄えてきた金銀を誰にも渡したくない想いが強く、金兵衛にあんころ餅を買ってきてくださいと、頼む。戻って、イッコやニコ、駄賃代わりにくれるかと思った金兵衛の思惑は外れ、西念は一人で食べるつもり・・・不思議がって、壁の穴から覗き込んでいると、西念は餅に金銀を包(くる)んで、そのまま、口の中へと。終いには咽喉を詰まらせて、西念は亡くなる。その夜のうちに、長屋の皆と棺を担いで、麻布絶口(ぜっこう)釜無村の木蓮(もくれん)寺へと向かう。その道筋が細かく、噺の中にでてくる。
下谷の山崎町を出まして、・・・・・、日本橋を渡りまして、・・・・、まッつぐに新橋を右に切れまして、・・・、木蓮寺へ来たときは、ずいぶんみんなくたびれた。あたし(演者=志ん生師匠)もくたびれたよ、これは・・・・・・。》で、客をぐっと引き寄せていく段(くだり)である。
 この経路(かなり省いているが)というのが、明王院の西運がたどった真逆に近いと考えている。もちろん、現在より道路事情が限られているので、当時は、上野・浅草あたりから麻布・目黒(あるいはその逆)へと向かうには、同じようになるのであろうが、下谷の西念と明王院の西運といい、出家前の西運といわれる佐兵衛(お七の恋仲)と味噌売りの金兵衛というのは、考えすぎ、なのであろうか。もちろん、両者の(話の)筋はまったく異なっているけれども、なんとなく、対称に、想っている。
 太鼓橋の向こうに渡る。
 左角に大東カカオ?という会社がある。手許の電子地図の一方には、新不二屋製菓とあって、それが、大東カカオの販売会社であったとあとで知ったが、今は、親会社(大東カカオ社)に吸収されている。本館とアネックスがあって、その、いずれかに、オッジ(OGGI)というチョコレート、ケーキおよびジェラートを売るお店がある。?オッジさんと大東さんは古くからのお付き合いだそうで、原材料を大東さんから仕入れて、販売しているらしい。わたくしは、食べたことがないので、ずいぶん、お店の前でうろうろしていたが、所用前だし・・・、と、訳の分からない理由でもって、やめてしまった。うっかりしていたが、ビルの色がチョコレート色だったかどうか、それを確かめがてら、また、うかがいたいと思う。
 山手通り(環状6号)にでた。さすがに交通量が多く、横断歩道は近くになく、陸橋を渡って、向こう岸へ。本日は、あと2か所と思い、頑張った。蟠龍寺(ばんりゅうじ)は奥まっていて、ひっそりとあった。白粉(おしろい)地蔵さんが居て、「地蔵の顔におしろいを塗り、残りを自分の顔につけると美人になるという信仰があり、特におしろいに縁のある歌舞伎役者に信仰された」と、目黒区のサイトにある(目黒の地蔵尊信仰)。このお寺には岩屋弁財天というのが別にあって、みると、隣の敷地に食い下がるように岩屋洞(堂)が拡がっているようである。岩屋というと、例えば、江ノ島であるとか、淡路島を想うが、こういうふうに陸(おか)で見るのも、なんだか、地理感覚がずれて、面白い。(参考;大成建設?週刊コラム/岩屋の 弁財天 蟠竜寺

[蟠竜寺の梅を]
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[梅を、弐]
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[梅さん]
蟠龍寺3画像0026

 
 「蟠」

 虫さんが嫌いなわたくしには、やはり苦手な字面である。蟠(わだかま)る、この程度であればよいのであるが、次がイケない、【トグロを巻く】である。以上は、手持ちの漢和辞典の説明に拠る。蟠拠(ばんきょ)、最上徳内について、アレコレ眺めている際に、興味深く読ませていただいた「武家家伝_最上氏」(播磨屋さん)の文中に「・・・蟠拠して」とあった。蟠踞とも書き、トグロを巻いたようにうずくまる、あるいは、広い土地を領有して、城に立てこもる」と漢和辞典にあった。前者(トグロのほう)の状態で、城に籠もられたら、やはり、コワい。蟠蠎(ばんもう)となると、もうイケナイ(虫虫である)。ずばり、トグロを巻いている大へび、とあり、「蠎」は、ヲ(オ)ロチ、ウハ(ワ)バミ、ダイジャと読み訓だす・・・虫偏については、いずれ、書きたくないけれど、記したい。

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 さて、最後は、天恩山五百羅漢寺に。もう、そのお隣は、お不動(龍泉寺)さんでもある。頂いた小冊子には、
 「元禄8(1695)年に本所(同寺サイトには五ツ目〜現在の大島とある)に建立された」とあるが、明治41(1908)年に当地に遷ったものの、寺運は上がらず、羅漢像は野ざらしのまま、朽ちるばかりの状態に陥っていたそうで、昭和56(1981)年に現在の雨露を凌ぐことのできる安住の地ができたという。したがって、300円は惜しくないと、言いきかせた。
天恩山五百羅漢のサイト]※由緒など
 この「目黒のらかんさん」にまつわる噺もあって、火事で焼け出され親と逸(はぐ)れてしまった年端もいかない女の子の話しである。この火事というのは、行人坂火事(明和の大火)のことであろうか。ただし、江戸時代に羅漢さんは本所(大島)にあったのだから、違うかもしれないし、落語というものは、そういう現実的なコトを考える必要もないので、これ以上、深追いしないが、最後だけ、紹介すると、
 ここでも、長屋の衆が活躍して、親子は再会を果たすことになる。
(衆) 「やはり、(五百)羅漢さんのおかげだ〜ねぇ」と、
(住職)「い〜や、今は親子ヤカン(羅漢)だよ」というオチ。
 まぁ、これだけでは、何も分からない。

[こぶし?もくれん?・・・]※らかんさんにて
羅漢こぶし?画像0033

 どっちなのであろうか。わたくしにはさっぱり分からない、こぶしであれば、香りがと思うけれども、一輪が樹の最上にあるだけで、匂いが落ちてこない。「もくれん」であるのなら、落ちがないという「黄金餅」ではないが、拙ブロにも下げがつく。

 お不動さんにはまた、と思う。それ以前に、自分の体力が限界でもあったし、背腹もくっ付きそうでもあった。山手通りを行き来している最中に気になっていた、おそば屋さんに飛び込み、「タヌキそば」を頼んだ。
 「タヌキ・・・はないですが」と、
 卓上にある器の蓋を開けてくださって、かけそばにふりかけてくださいと、中の「天カス」が少ないのを確かめて、隣の卓のものと換えてくださった。では、かけそばを、と、もちろん、所用前なので、そば茶を頂きながら、待ち、でてきた、おそばにたっぷりと、かすをかけて、器から、(かすの)おかわりをして、珍しく、たいらげた(お出汁も)。タヌキはメグロに限る、そういう、「落ち」にするつもりは、もうとう、ない。

 次回は、駒込吉祥寺から白山に向かって歩いてみる。