筋と通り

 ご承知の事がらであろうが、一般的に大阪ではタテ(南北)の道路を「筋」と呼び、ヨコ(東西)を「通り」と称している。過日(9月26〜29日)、大阪滞在の場所は御堂筋と堺筋に挟まれた一帯にあり、通りの名が分からない。すぐ南を本町通りという。あてずっぽうに安土町通りとしておく。週末はずいぶん、ゆったりとした都市リゾートのような土地であって、同宿では披露宴もあって、黒服の方たちの待ち合わせあるいは宴後のひととき(二次会前ではなく、それを遠慮された中高年の方が懐かしい顔と談話している雰囲気である)を過ごしていらっしゃる近くのカフェ以外はどこも閉じている。そのような空気が好きで、そこを宿とした。そのカフェには朝夕、通って、できるかぎり居て、テラスでもって、気兼ねせずにタバコを吸っていた。近頃の都会リゾートは混んでいることも多いが、此処は、ワガママなわたくしには秀逸の空間であった。
 この辺りは全てヨコ釤で”つながっている。道修(どしょう)町は筋とは関係なくあくまでも東西(通り)で成り立っており、堺筋を突き抜けた向こう岸にもコニシのボンドさんがある。『くすりのまち道修町〜展示パネル集」(道修町資料保存会発行)によると、江戸時代(安政年間)のドショウの範囲は西横堀から東横堀の広い範囲に亘っており、その間の筋を挙げると、御堂、淀屋橋、心斎橋、丼池(どぶいけ)、中橋、難波橋、堺、八百屋町、板尾橋とある。同紙は1997年発行とあり、ご丁寧に別刷りでもって03年の道修町を標した図があり、そこには御堂及び堺以外は略されており、そのかわり三休橋筋が示されている。もう一度、江戸地図に戻ると、中筋と丼池の間に名が記されていない筋があって、それが三休橋のようである。脇に塩野屋藤次郎という名があって、さらに1940(昭和15)年の地図には塩野香料、隣には塩野義商店の名も。前者は1808(文化5)年、和漢薬真珠などの薬種問屋として、塩野(屋)吉兵衛商店創業(同社サイトより)、後者は1878(明治11)年に塩野(屋)義三郎が道修町にて薬種問屋塩野義三郎商店を創業、和漢薬を販売とあり、現在の塩野義製薬である(同社サイトより)。1904(明治37)年の図には塩野吉兵衛と塩野義三郎の名もみつかった。加えておくと、拙ブロ(艸絲〜08年9月30日付)で記した近長はやはり近江(屋)の長兵衛さんであったが、前記パネル集の「有力薬種中買仲間の系譜」(1872〜明治5年)にその名を見つけた。旧屋号とともにご一新に伴なう新姓が記載されており、武田とある。料亭などではなかった、のちの武田薬品工業のことである(同社サイトより)。
 塩野屋藤次郎については、わずかのことしか分からない。やはり、薬種問屋であるらしい。「くすりの道修町資料館だより」14号に以下のような一節がある。

『寛政11年12月改の人数帳』
 《道修町二丁目 塩野屋吉兵衛(*4)の所の貼り紙に「福島屋半兵衛代判善七にて商売相勤め罷り在り処、このたび株相退き、中買株塩野屋吉兵衛譲り受け、商売相勤め申し候 文化13年10月」と記載されています。塩野家の始祖である初代吉兵衛は、主家の塩野屋藤兵衛から30歳で別家を許されましたが、中買株を取得したのは、別家から8年後の文化13年(1816)でした。》
 (*4)は注釈で、現・塩野香料?とあり、同社のサイトでは創業を別家(分家)の年(文化5年)としている。この「主家の塩野屋藤兵衛」が藤次郎と関係しているのであろうか。ちなみに、吉兵衛の塩野香料から義三郎の塩野義製薬が分かれていくと、少彦名神社宮司の別所俊顕氏による講演の中にあった(薬の町・道修町と神農さん)。

 ここから想像であるが、藤兵衛さん(おそらく長男)から分家した吉兵衛さんもおそらく長男で、吉兵衛家から分かれたのが三男の義三郎さんと考えると、塩野屋藤次郎も藤兵衛家の次男坊であったのであろう。大店で、身代はしっかりしており、跡継ぎの必要もないと想うと、そういう方面に向いても不思議はない。

 『(長月庵)十三(ちやうげつあんとざん)は道修寺町(だうしうじまち)の薬種商、塩野屋の惣本家で、本名を小牧藤次郎という。この人至って多芸にて、茶湯、挿花(いけばな)、俳諧より、碁将碁(ごしやうぎ)、賭事にいたるまで、其の道を究めずといふことなく、殊に義太夫至りては、当時双(なら)ぶ者無き程にて、一座のドツサリたり太夫(たいふ)すら入門するものあるに至れり。今の大隅太夫なども其の一人なりきとかや。(以下略)』

 以上は『東京浄瑠璃雑誌2巻2号』(1902〜明治35年11月10日発行)の中にある。藤井小勝いう太夫がいらして、天保4年生まれで、十三(藤次郎)に師事したらしい。道修町の江戸地図は安政年間であるから、小勝翁が20代後半のことである。「道修寺町」とあるが、道修の地名由来のひとつに、「かつて道修寺というお寺があり、その墓石も掘り出されています。地名はお寺の名前に由来するというもの」と、ようこそくすりの道修町資料館にあって、浄瑠璃雑誌のとおりであれば、地名はお寺に由来すると断じることもできる。太夫に今、かかわっている時間も知識もないので、少し、先を急ぐが、安政からみると近松門左衛門はもう100年以上前に活躍している、
 道修町から南にもう一度確認しながら下がってみると、平野町、淡路町、瓦町、備後町安土町、本町、そして、船場といきつく。ただし、船場というのは以上の街を含んだ広く繁なる街区をさすという。
 その先は心斎橋であるが、本日は圏外である。北へと進めば、北浜は江戸の兜町、室町(日銀辺り)と同様、金融の街、高麗橋はというと高級呉服屋〜三井呉服店三越の前身)が創業した。伏見町は唐物と謂われ、芝川新助さんもイオロパの品々を輸入していたとある(芝川ビルのサイトより)。店舗を大阪百足屋といって、今でいえば、百貨店ということなのであろうか。道修町の艸(クサカンムリ)、そして安土町・本町・久太郎町(おおむね丼池あたり)は絲(糸ヘン)〜繊維と変わって、小間物屋の久宝寺町は今も雑雑・嬉嬉としている(協同組合大阪久宝寺町卸連盟のサイトより)、安堂寺町は「船場」の最南端で、金物の街である。

 そのようなつもりで歩いたことはないけれども、いずれもヨコ(東西)に広がることに意味がある。

 本日は以上のこと(筋・通り=タテ・ヨコ)を記したいと思っていた。ただし、道草をし過ぎた。本題については次にしたい。

 筋書き通りにはゆかない。