金山城(太田市そぞろ歩き、のつもりが、また、寄り道し過ぎ)

 太田市というのは、あらためて俯瞰すると上州(上毛野国)と野州(下毛野国)のちょうど要にあるといってよい。そういう意味では隣・近接する足利、桐生や佐野あるいは館林もそうであるし、乱暴にいえば、この辺りが両国のせめぎ合いの行き着く場所である。両毛というのはそういうこともあるのであろう、本日は、特にふれないが、足利などという町は一頭の部類に入ると考えても良い。もちろん、足利氏のことであるが、義国の長子は新田に遷って、新田氏を興したものだからというわけではないが、いまだにグンマとトチギ(トチギとグンマか)の境がごちゃごちゃになっていて、困る。
 さて、太田市は、歴史の中では青二才なのかもしれない。足利氏、桐生氏、佐野氏、いずれも、戦国時代(15〜16世紀)前からの名家であり、館林は江戸に入ってから、徳川四天王のひとり榊原康政そして、将軍継承前の綱吉(館林宰相と呼ばれていた)の居城ともなっている。これに較べると、この町の背北にある金山(かなやま)城の主はあまり知られていない。太田市のサイトによると、築城は1469(文明元)年、そして、1590(天正18)年には廃城とある。秀吉の天下統一の年であり、家康もすでに関東、江戸城に封じており、虎視眈々と天下盗りを狙っている。歴代の城主は、新田岩松氏、横瀬・由良氏、そして、小田原北条氏とあり、小田原征伐がこの城を事実上、陥したことを物語っている(「金山城の概要」より)。知らないのは、わたくしだけなのかもしれないけれども、今(もう、終わっているのか)、nhkで放っている信玄とか、そういう時代に、あらわれて、ぱっと消えた(消された)お城、という程度にしか、あるいは、そういう騒々しい時代にあっただけに過ぎないのかもしれない。望んだことはあるけれども、訪ねたことはないので、次回には登ってみたい。
 現在の太田駅周辺を俯瞰すると、先の金山廃城が据わる北側一帯に最初の町ができたのであろうか。それが、例幣使街道、今の県道2号(主要地方道前橋館林線)、すなわち、ホテル古久三(穀三)に面した通りである。ただし、正確にはこの道は旧古河街道と呼ばれ、あれこれ調べていると、東武桐生線と2号がぶつかる辺りで、同じく交叉している県道312号(太田境東線)が例幣使のようである。(例幣使のルート/太田市観光協会より)いったん、古河(こが)という、これもまた一頭の町から延びる筋と合わさり、大田宿を過ぎると、例幣使は北上しつつ、東行する。余談であるが、古河藩の家老で鷹見泉石(たかみ・せんせき)という蘭学者がいて、藩主・土井利位(としつら)のもと、有名な大塩平八郎の乱を平定したともいわれている。わたくしの中には渡辺崋山による肖像画がある。利位のほうはというと、決して評判は芳しくなく、大塩の乱後、老中となった折りに水野忠邦天保の改革を推進した)の足を引っぱったなどという逸話も残されている。ただ、日本で初めて、雪の結晶を観察した人物としても著名で、(新たな)学問に対する関心は旺盛だという評もあるが、これも、あれも、泉石のお陰であるという側面も否めない。(土井利位「雪華図説Snow Worldより)※拙ブロ「六つの花(六花17号を公開)」06年1月15日付参照。
 古河については、いずれ、また。
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 例幣使街道太田宿に戻る。陸軍・軍医副、森林太郎(鴎外)は栃木、佐野などを経て、太田に逗留し、さらに西へと向かい、その日のうちには、前橋に着いている。その間の詳細は記しておらず、「北游日乗」には《(二月)十九日 はれたり太田を立つ・・・・夕暮に前橋本町なる白井といふ家に着きぬこゝにてからかぜといふ北風いと烈しそれがしといふもの訪ひ来て前橋の風俗を語る》とあることから、おそらく、古河街道を歩いたものと思われる。前橋駅を降り、県庁に向かう通りに「ホテル白井屋」がある、裏手に馬場川が流れ、萩原朔太郎の生家も近く、一帯は千代田の呑み夜街でもある。わたくしも何度か歩いた場所であるが、白井の記憶はまったくなく、ただ、裏手で呑んでいたことだけが残っている。
 また、厩橋(前橋)については、実はまだ、色々と知りたいことがあって、近々、訪ねてみようと思っている。これまでは、急ぎ足もあって、留め書きすべきこともせず、お尋ねしなくてはと思ったことも、未だ、何もしていない、ていたらくである。・・・これも、また、いずれ。
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 ・・・・穀三辺りを東本町という。お城直下を本町とし、その東西を割った形でもって、御城下が開いている。東武の駅は1909(明治42)年に足利町駅(現在は足利市駅)から延長されたと、東武鉄道?のサイトにある。(東武鉄道の歴史)只今の伊勢崎線をさしており、翌年、伊勢崎駅まで全通している。一方、当時の太田市は歴史上、まだもって、青二才が続いている。ところが、突如、成長する、おおざっぱにいって、第一次大戦前後からであろう。いうまでもなく、飛行機王・中島知久平翁の登場である。このことのついては、すでに、拙ブロ「尾島町〜北関東垂れ記2」(10月28日付)でもふれたことであるので、省くが、太田はその後、スバルの街に化(か)わる。富士重工業となるのは戦後10年ほど経ってからのことであるが(1953=昭和28年、ただし、創業は1917=大正6)、ご城下及び門前町大光院)として、そして宿場町として栄えていた(現在でいう)北口はスバル街としておおいに繁華な賑わいがあったのだろうと想像できる。同社のサイトを検めたが、操業開始年が分からないので、はっきりしたことはいえないけれども、おそらく、本工場が最初なのであろう、太田市スバル町1−1に在る。もう、金山(城)の麓、お膝元に所在している。北口の商店は潤ったはずである。当時のことは、もちろん見ていないけれども、これもまた、想像はつく。当時、そういう街場がずいぶん多かったということは、クレイジーキャッツの映画を観て、教わった。駅南口にベルタウン(ユニーなど)が開業したのが1977(昭和52)年、これと同時に北口の商店街は使命を終えたのだろうか、そして、郊外の軍艦のようなSCにお客さんを奪われて、本年初めにベルタウンも閉めた。幸いというのか、その前に買い物ができた。今はどうもドン.キホーテになったらしい。駅前はますます、寂れていくけれども、女子高生(時々、男子)が多い地方の駅前にはドンキの方が合っているのかもしれない。
 鴎外翁は空っ風(颪)を前橋(上州)の風俗と記している。太田駅の南口をつっと延びる30メートル幅の、しかも、歩道が妙に広い通りの両側にはさまざまなお店が並んでいる。面白いのは、フ〜ゾク、フツウ、フ〜ゾク、フ〜ゾク、フツウという順不同(の並び)であるから、行った方は迷う。ちょっとコじゃれた料理屋の両隣がもっとシャレてるフ〜ゾクだったりするから、混乱する。通常は、ブロックごとに固まっているという概念が働くが、ここは異なっていて、楽しい。南一番街といって、あとで調べると、北関東の歌舞伎町(asahi.com)ともあるが、それは、かなり一頭の感想(表現)であって、わたくしには、街の原点が詰まっているようで、まるで博覧会のようで、楽しい(ただし、フツウにもフ〜ゾクにも入ることはなかったけど)。
南一番街の鋪道](マチダコーポレーション?サイトより)歩道が広い!
 太田というのは全国どこにでもある地方都市の情況を映しているだけのことかもしれない。強いていえば、あえて、太田市やここから電車でも通うことのできる(スバルに乗れば、すぐ)邑楽(おうら)郡大泉町の外国人比率(主に日系人の方)について、記すのを避けてきた。とはいえ、このことさえ、今となっては、各地にあるのだから、珍しくなく、特徴とも、特長ともいえない。
 ただし、万国に拡がるハクランカイが、もし、ここ(南一番街)で繰り広げられることがあれば、この一帯は、歴史上、初めて、一頭の地になるのでは、と、(ひそかに)応援している。