三河町(北関東垂れ記8)

 本項は1月3日に書くつもりであったけれども、横に逸れてしまい、戻ることができず、そのまま宙に浮いていた。標題は、前橋市内にある地名のひとつである、「みかわちょう」と読む。西・南生まれの、わたくしは、つい「−まち」と言いそうになるが、東・北では「−ちょう」が一般的のようである。市町村の方の「町」は東・北では「−まち」、西・南では「−ちょう」が多いのと関係があるのであろう。さて、改めて、前橋市の中心街を電子地図を頼りに確かめてみると、現在は官庁街となっている厩橋(前橋)城付近を大手町という。そこから東方向へと、ご城下を通りが延びており、北側が「千代田町」、南側を「本町」と称す。まことに優等生的な地名づけである。全国各地のモトご城下ではこれらのほかに、丸の内、三の丸などがお城周りの名づけとして多く存在している。わたくしが長く育った小城下を思い起すと、殿町、本町、上町(これだけはウワ−チョウと呼んでいた)、新町、寺町などがあったが、より大きな、栄えたご城下であれば紺屋町、魚町、大工町、鍛冶屋町など職人の顔が今でも浮かびそうな名も残っている。前橋駅前にいたる一帯は表町とあるが、一体、何に対して表なのか、もうひとつはっきりしないが、駅前町と付けられるよりは益しなのであろうか。もう少し調べてみると、もともと、千代田町にも本町にも旧名があり、そのことは、呑み屋さんが集積している千代田町への賭場口付近に建てられている朔太郎さんの碑にも記してあった。もう、その旧町名を失念しているが、ほかにも前記↑職人顔の名がいくつかあったらしい。おそらく、これらの名と同じように、三河町も後から付けられた名であることには違いないのであろう。少なくとも、酒井氏が入城する前には異なった名なり、名無しの地であったのかもしれない。三河モンが移ってきて、住み始めたので三河(ノ)町、分かりやすい名づけである。東京(江戸)にも三河町はあったと、千代田区の資料にある。江戸から長崎に飛ぶが、県庁は江戸町に所在する。紀尾井町というのはもう有名で、紀伊藩、尾張藩および井伊藩のお屋敷があったことから今でも使われている。これは想像であるが、三河町、紀尾井町(これは明治期に名づけされた)、江戸町・・・など、いずれもモトの名があったのを、江戸期以降に名替えがされ(A段階)、おそらく、多くの場合、その後に、例えば、前橋の千代田町のように、それらしい名に振りかえられた場合が多く(B段階)、言い換えれば、三河、紀尾井、江戸はBをまぬがれて、辛うじて残っている方(ほう)なのかもしれない。表町もBなのかもしれない、また、前橋駅の南側に文京町というのがある。確かに教育機関が多く所在し、此処も、想像の範囲でいえば、Bであり、東京都文京区的発想なのであろうか。較べて、新潟市の閑静な住宅街に近い学校町通あるいは医学町通、特に「学校裏町」には感心しているし、関心もある。(もっとも、此処も明治期に新潟町に吸収される前は寄居村であって、新潟大学のHPをみると、その前後に前身の師範学校などが成立し、学校町通あるいは裏町と付けられたようである・・・また、それるけれども、新大=シンダイのエンブレムは六花(りっか)、拙HPに掲載中の《рикка六花(りっか)ハバロフスク日本人会会報》と同じで、もちろん(?)新潟市ハバロフスク市は姉妹都市である)学校裏町などという名づけをする「気が知れる(分かる)」というと乱暴だろうか、三河町もそうであるように、せめてA段階で留めている土地を探して、いつも、ほっつき歩いているのも、なんだか、おかしな話であるが、今どきはナカナカそういうオイシイ場所が見つからないので、いささか失望している。もちろん、A段階の名づけも、当時の人からみれば、なに?という感覚であったのかもしれない、そういうことを思うと、なおさら、Aの前、さらに、Aの前の前、そして、・・・、というような振り返りをしてみたい気持ちが強くなっていくのは、わたくしが、只今に、存在していないためなのであろうか。できれば3千年ほど前を、あるいは(地球が)残っているのであれば1千年ぐらい先を訪ねてみたいというのでは、前回(14日)に続く妄想旅行でしかないのであろうが、そのほうが、身の置場ができたような気がして、とにかく楽しい。ま、どうでもよいことであるのだけれども。
 前橋での所用およびホッツキを終え、帰りは上毛電鉄を利用してみた。中央前橋という全国でも数少ない「中央」を冠した駅である。都市名や区名の「ちゅうおう」は今ひとつであるが、コッチは威風堂々としていてよろしい。ほかに中央弘前、中央林間などがある。暗くなっていく、車窓を眺めながら、途中、大前田英五郎の墓があると思ったけれど、その筋には近づかないようにしているので、さっさと、逃げるようにして・・・、ひとまず、垂れ記も手仕舞(〆)にする。