北関東垂れ記、太田〜のつもりが正(征)露丸、脚気、鴎外・・・

 正(征)露丸が自衛隊の装備品として100年ぶりに復活したという記事をみた(SANKEI.JP.MSN.COM、11月12日付)。もちろん、以前は旧陸軍などのことであり、また、もともと、開発したのも軍であったという(異論もあるが、ここでは省略)。わたくしも常備、携帯するようにしている。

正露丸]※ラッパのマークではないけれど、左下は葛根湯(常備薬)、上は・・・(常備・常呑・・・)
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 イザベラバード女史はこれから始まる長い旅の支度のための江戸滞在を経て、粕壁(春日部)、栃木、というコースを歩んでいる。ほぼ、現在の東武線は日光街道に並行しているので、擬似的に、その道程を辿ることも可能である。女史は宇都宮を経て、日光へ向かうのであるが、皆に知られた日光街道を使わず、いわば裏通りともいえる道を馬車で日光まで向かった(途中、今市で両道は合わさる)。引用すると、
 『日光に通ずる道は二つある。私は宇都宮から行く普通のコースを避けた。その結果、奥州街道と呼ばれる大きな街道沿いに約五〇マイル続いている最もすばらしい街道を見ることができなかった。私のとったコースの例幣使(れいへいし)街道は三〇マイル続く。この二つの街道は、途中で幾つかの村を経て、日光から八マイルの今市という村で合流する・・・』(「日本奥地紀行、イザベラ・バード女史著、高梨健吉氏訳、平凡社ライブラリー
 偶然であるけれども、わたくしも通った、そのことは、一度書いた(拙ブロ;不意、07年3月20日付)。鬱そうとした杉並木に護られた空間に入ると、一瞬にして時間が戻り、バード女史の乗る馬車とすれ違っても、おかしくない。わたくしと逆方向に向かった女史は、こののち、金谷家(現在の日光金谷ホテル)にしばらく投宿している。
 森林太郎(鴎外)は第一大学区医学校(のちの東京医学校、現在の東京大学医学部)を10代(19歳)にして卆え(1881=明治14年)、同年に陸軍の医師(軍医副)として採用される。翌年、「官事」のため、北越(現在の新潟県)視察の旅に出る。
 二週間ほど前、「鴎外選集・第二十一巻」を手に入れたと書いた(拙ブロ「こしょこしょ」07年11月10日付)。この中には、ドイツ留学時を記した「独逸日記」や小倉赴任の際に記された「小倉日記」などが収蔵されていて、特に後者については、鴎外自身が小倉赴任を左遷と感じていたとされるが、そう思って読めば、他に較べて、暗く、沈んだようにも読めなくもない。このことは、改めて、読んでみてから、また、感ずることがあれば記したいと思う。
 さて、北越への官事旅行を記した日記を「北游日乗」(ほくゆうにちじょう)」という、上記日記とともに、収められている。短い文章である。冒頭に壬午2月13日、小網町三丁目の河内屋で券を購入し、新大橋より舟に乗るとある。壬午(じんご、みずのえうま)は82(明治15)年であり、3月29日には『高崎を立ちて都に帰りぬ』とあるから、2か月弱のことであり、淡々と、経路や宿についての記録が続いている。同年9月には箱舘(函館)に向かっているが、この際の日記は「後北游日乗」という(これも選集に収録されている)。小網町というのは寛永時代から江戸と下総を結ぶ行徳船の往来が頻繁で、三丁目の行徳河岸から行徳、そして、利根川(現在の江戸川)を揺られて、北上していたらしい。(「古今・お江戸日本橋/日本橋”町”物語・小網町」〜東京都印刷工業組合(TPIA) 日本橋支部より)
 鴎外が古河(こが)に到着するのは14日、小山の駅を過ぎ、栃木・万町の川辺屋に15〜18日まで逗留する。そののち、犬臥(犬伏)〜堀米(堀込)〜佐野を経て、太田にいたる。北游日乗には、『十八日 はれたり栃木を立つこの日陰暦の元旦なりければ軒ごとに松立てゝ童ども新なる衣きて遊べり犬臥堀米佐野を経て太田といふところに宿りぬ旅店を穀三といふ』とある。
 詳しくは、もちろん分からないけれども、栃木を出て、太田に至る街道が「例幣使」のようである。バード女史は、宇都宮より日光へ向かう際、この街道を用いたと記しているが、正確には、楡木宿までを指し、以降(以北)、今市宿までを日光壬生道(みぶみち)といって、小山から北上して、今市に至る。さらに、小山から江戸に向かっては、(日光)御成街道が「下って」おり、日光街道の脇道(バイパス)を担っている。また、女史が記している奥州街道は別物であるけれども、まぁ、細かいことは、、、。
 (わたくしの)交通費調べを確認すると、直近に群馬県太田市を訪ねたのは、06年8月である。所用で、泊ることになるが、わざわざ、「そこ」を選んだ理由があって、それが、鴎外の日記にある穀三、只今のホテル古久三(こくさぶ)である。同ホテルのサイトにもふれられていて、「森鴎外」という項に詳しく紹介されている。場所は、太田駅北口を少し上った旧例幣使街道沿いにある。もちろん、今は当時の面影はなく、失礼ながら、ふつうのビジネスホテルでしかなく、今では、すっかり寂れてしまった街道筋あるいは太田駅周辺に、125年ほど前の繁華な様子を感じるには、相当の想像力を要する。太田については、この拙文が終わってから、また、記したいと思っている。
往時の穀三](同ホテルサイトより)
 後北游日乗の冒頭にも書かれているが、この年に朝鮮で壬午事変が勃発する。以降、日本と清国の関係は悪化し、日清戦争へと走り、さらに、日本はロシヤとの戦い(日露戦争)へと進む。この両大戦で日本軍を悩ませたのが脚気であることは有名である。膝を普通の状態(直角に折り曲げた)にしたまま、坐し、ソコをカナヅチでもって、軽く叩くと、ヒョッぃと膝から下の部分が撥ねあがると、合格である。以上は、脚気(かっけ)の陰陽を試す簡易的な検査方法であり、わたくしも何度か被験したことがあるが、今はどうなのであろうか。そういう検査を行なった記憶もないし、だいいち脚気じたいの罹患率が分からない、それほど、駆逐された病のひとつでもあるらしい。しかし、明治期には脚気は国家的な深刻さでもって、特に、大陸侵攻の兵士間に蔓延し、甚大な被害、すなわち、死亡者が多数あったといわれる。そして、この時、脚気の原因をめぐって、栄養説を唱える派とウィルス説を主張する側がいて、結果として、白米に偏った食生活をパン、あるいは麦飯を「摂り」入れることで、脚気の原因であるビタミンB1不足などを補うことができるという前者が正しかったのであるが、後者の中心に鴎外がいたことも、よく知られている。(鴎外と脚気について/近代文学研究会サイトより)
 医師としての鴎外翁は必ずしも評価されていない、そればかりか、今もなお、鴎外の罪として論じる傾向もある。確認はできていないが、鴎外は、「正(征)露丸」を脚気対策にもたせたという説もある。わたくしには、真偽は分からないけれども、一連のコトを想っていると、鴎外という人物あるいは翁の作風の一端を垣間見ることはできるのであろうか、と、生意気なことを考えている。
[鴎外選集第二十一巻 日記](岩波書店
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 先週の土曜日、思い立って、所用のあと、上野の水月ホテル鴎外荘を訪ねた(拙ブロ「2冊目」07年11月17日付)。相変わらず、混んでいらして、この日もほぼ満室、宴会場も大忙しのようであった。中には気の早い忘年会の方たちもいらして、鴎外旧居「舞姫の間」(お座敷)も盛況のようであった。
 食事もお酒も敬遠して、ただただ、天然温泉というお風呂に入って、お暇した。下町のお湯はやはり熱い、帰り途、動物園とお山の間の通りは寒かったけれども、そのあと、「まめや」さんで呑んで、帰ったけれども、翌日、木枯し1号(一番)が吹いたというけれども、お蔭で、風邪も引かずに済んだ。
 おきなわでは先月、ミーニシ(新北風)が吹いて、秋が来たと書いた。(拙ブロ「絵日記おきなわ/19.OCT」07年10月20日付)、この先、冬至寒(トゥンジビーサ)、鬼餅寒(ムーチービーサー)と冬が到来する、そのことは本土も同じで、日に日に寒さが増すばかりである。
 本日は、ずっと気になっていた太田宿・穀三について記したが、実は、標題にもあるとおり北関東垂れ記の〆のつもりであったけれども、どうしても、北游日乗のその一節を目にしたかったため、遅れてしまった。ちょっと、所用をおもいついたので、再び、北関東へ出かけてみようかと、颪のご機嫌をうかがっているところでもある。
 (注)「北関東垂れ記」は06年10月26日〜07年1月17日間で、断続的に記。