琉球留記?識名園

 冊封とは、中国皇帝が周辺諸国に対し、特定の者をその国王と認める(任命する)儀式のことをさすらしく、さくふう、さっぷう、または、さっぽうと読まれる。
 儀式のために、諸国に遣わせられるのが「冊封使」である。琉球では、15世紀初頭に初めて行なわれた。察度(さっと)王統二代、武寧(ぶねい)王の頃である。まだ、琉球の社会は統一過程にあり、三山時代(美ら島物語サイトより)ともいわれる。察度王は実在が確認できる最初の「中山」王であり、武寧はその世継ぎで、父が開いた(受け容れた)明との友好関係をもとに、最初の冊封を受けることとなる(1404年)。その後、琉球処分(1879年)まで400年近い琉球「統一」王朝を築きあげる尚氏王朝が琉球王としての冊封を受ける。ただし、尚氏王朝はまったく系統の異なる第一尚氏(尚徳以前)と第二尚氏(尚円以降)からなる。(1469年に交替)
 時間を一気に400年ほど飛ばすが、尚温王第二尚氏17代)の冊封儀式用にと造られたのが「識名園」(俗称;シチナヌウドゥン)である。(18世紀末、1799年という説もある)電子地図で確認すると、識名園首里城のほぼ真南、1.5キロほどの位置にある。那覇市の地形は首里城付近を頂点として、西(那覇都心側)に向かうほど低くなる状態であり、そのことは、前回、訪ねた際に首里城からユイレールの儀保(ぎぼ)駅あるいは市立病院前駅まで歩き、経験済みである。もう少し書くと、お城の東側一帯は小高い丘によって構成されており、本島を縦(上下)方向にスキャンしてみると、全体に東から西へと下がっている様子がわかる。「琉球本島の地形内閣府沖縄総合事務所農林水産部土地改良課サイト)」
 その感覚は市内から識名園に向かう際にも認知できるし、また、園内にある勧耕台(かんこうだい)に立ってみると、よく分かる。(参考サイト;識名園の勧耕台
 さて、識名園は13000坪の狭くもなく、広いともいえないけれども、ノンビリしようとすれば1時間では足りない。園内への飲料持込は禁止されているから、入る前にスポーツドリンク1本分を補給して、暑さに備えたけれども、中はうっそうとした樹木で覆われており、陽を遮ってくれるので、心地よい。あとで、山羊料理屋さんの常連の方からクマゼミが鳴かないと知るが、別の種類のセミはもう盛況で、飛ぶ姿も見かけた。日中の気温はゆうに30℃を超えているけれども、ここはそれを避けて、王家が過ごしたという別邸として、最適な空間であったのであろう。17世紀後半にお城の東、現在の首里崎山町付近に造られた「御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)」を東苑と呼んだことから、識名園は「南苑」ともいわれた。すれ違った散歩(観覧)客は10名弱、したがって、わたくしを含めて1人当り1300坪を占有するという「ぜいたく」な時間と空間をいただいたことになる。中でも、ほぼ中央に位置する六角堂は、わたくしが占めすぎたようである。池を挟んで御殿(ウドゥン)を眺めながら、長い時間いた。他の方は、遠慮したのか、ここまで来ても、さっと巡って(一周十秒)、元の道に戻っていかれた(ようである)。
 識名園の往き復りに気になっていたのが広大な墓苑である。あとで、地図をみると、識名霊園墓地とある。小高い丘陵に所狭しと、その数の多さに驚いた。やや古いデータであるが、那覇市内には約1万2千基のお墓が(墓地)があり、その2/3が識名にあるという。(沖縄大学〜吉川研究室)お墓は無闇に(理由なく)訪ねたりするものではないと思っているので、車窓から眺めるだけであったけれども、琉球形式の墓石を垣間みることができた。通過するわずかな時間の中で亀甲墓は確認できなかったけれど、破風墓あるいは屋形墓と思われる形を通り見ることができた。(琉球の墓石;写真で見る沖縄サイト)お墓はちょっとした古墳大、一つ一つに場所も必要となるため、墓苑全体が自ずと拡がっていく。言葉は適切ではないけれども、お墓が苑をはみ出して、道路へと飛び出しているような光景にも映った。
 琉球の盆は旧暦の7月13〜15(16)日である。本年のウンケー(迎え)は8月25日、ウークイ(送り)は27(28)日だそうである。
 もちろん、山羊料理屋さんにも旧暦つきの「日捲(めく)り」があり、それを確かめながら、Nさんに教えていただいた。
 わたくしも、せめて、理由のあるお墓だけでも看てくるべきなのであろうか。

《参考拙ブロ》※首里城から下る坂を経験した
?レキオスそして仲秋(那覇周辺印象雑記?)(05/10/10)
?首里文化祭(11・3)…那覇中心徒歩記?(05/11/13)