琉球留記?骨肉と血(「尚円、尚宣威、尚真」あたり)

 前回(琉球留記?玉陵;たまうどぅん、2コ↓)、想像のうえで骨と肉を比較してみたが、第二尚氏王統の成立期には骨と肉の争いが絶えなかったらしい。それはそれで、数ある世界の歴史の中で、特に珍しいことではないし、すでに、第一尚氏から権威が移る際にも、そのような繰り返しが行なわれているともいえる。護佐丸、阿麻和利、鬼大城、百十(百度)踏揚、みな、そのような状況において、生き、斃れた(拙ブロ;球留記?東アジアを〓みかけた男〜勝連城「痕」07年8月18日付参照)。あるいは、ふれてはいないけれども志魯・布里(しろ・ふり)の乱(1453年)という骨肉もあった。第二尚氏2代王の尚宣威(しょう・せんい)は、兄である尚円(しょう・えん)の崩御のあと、即位する。兄の子(のちの第三代、尚真:しょう・しん)がまだ若いという理由から、引き受けた。ただし、商家の跡継ぎが成人するまでの後見人というわけにはいかなかった。宣威と兄(尚円)とは一回り以上(15歳)、歳の差があったらしいけれども、兄嫁(王妃、または側室の説もある)は尚円とは30も離れていたらしいから、宣威を一回り、若くして、なお、おつりが来る年端であったけれども、お姉さん(義理の姉)と呼ぶ立場にあった。そう呼んでいたかどうかは分からないけれど、そういう家族関係にあった。嫁をオギヤカ(宇喜也嘉)という。出自については、はっきりしない。尚円・宣威兄弟と同じ伊是名(いぜな)島というようにも考えたけれども、兄弟の父である尚稷(しょう・しょく)を祀っている伊是名玉陵にオギヤカと刻銘された石棺がある「沖縄の世界遺産」という、彼女の死後のことしか分かっていない。伊是名村(いぜな・そん)にある「NPO法人島の風」が管理運営している「伊是名島観光総合サイト」に島に伝わる民話が紹介されており、「高い所に流れる水」(第十三話をクリック)は金丸(かなまる;のちの尚円)にまつわる「お話」である。その中で、金丸は村(島)を追われて、ヤンバルに逃げ、そののち、西原・内間へ流れ着くという記述がある。また、他のいくつかのサイトによれば、伊是名からヤンバルまでは民話と同じであるが、金丸は首里に向かってから、出世して、内間御殿(ウチマウドゥン)に住むとあるけれども、それは、どちらでもよい。共通しているのは、伊是名を24歳前後に出ているということである。例として尚円王伝説【一介の百姓、遂に王位に登る】(伊是名の小説をクリック、カラムにて、尚円王伝説をクリック、伊是名村HPより)をみると、24歳の時に妻と弟(のちの尚宣威、当時9歳)を連れて、島を出るとあり、この際の妻が尚円の30歳年下であるオギヤカではないことを示している。いつ、オギヤカが尚円の妻(王妃か側室かは分からないが)となったのか、尚真(尚円とオギヤカの子)から逆算すれば、おそらく、西原内間か首里でということになろう。ただし、オギヤカの出自は分からないままである。尚真は尚円50歳頃の子である(尚円1415年生まれ、尚真65年生まれ)。尚円は、すでに御物城御鎖側官(註)にあって、第一尚氏は「尚泰久」から最後の王「尚徳」に移っていた(尚徳の在位は60〜69年)。そのあとに尚円が即位し、この先400年余の第二尚氏王統が始まる。
 (註)御物城(おものぐすく)は那覇港内の小島(現在は那覇軍港=筆註:米軍基地内)にあった王府の倉庫。海外との貿易品などを収めた。15世紀中期ごろから史料に見える。長官は鎖之側(さすぬすば)。(以下略、沖縄コンパクト事典;琉球新報社編より)※(筆註)鎖之側=御鎖側官
 弟(尚宣威)は、後見するつもりで、王位を引き受けたのであろうか。せめて、甥が成人するまで自分がという気になったのであろうか。第二尚氏王統は、まだ、横からひょいと突つけば、倒れそうな、危うい基盤の上にあった。兄の在位は10年弱であり、子(のちの尚真)はまだ11歳という状況の中では、むしろ当然の成り行きだったのかもしれない。諸説によれば、宣威はオギヤカの策略により、王の座を追われ、越来(ごえく;現在の沖縄市内)において隠居生活を送るとあり、この先、オギヤカは宣威の血筋を徹底的に排除するとされる。これ以降は、すべて想像でしか書けないけれど、人と人というのは相性で、その先すべてが決まることもある。よほど尚宣威とオギヤカは「肌があわなかった」のであろう。ことあるごとに、反目せざるを得なかった、もはや感情に走るしかなかったオギヤカ、そして、感情を封じ込めた宣威。もともと、宣威には王に就くつもりがなかったのかもしれない。弟が兄に連れられて伊是名島を離れたのは9歳の時である。もう、その時点で、兄の生活(生命)力に頼らざるを得ない状況に瀕しており、さいわい扶助された、そのことを生涯、やはり感謝する念の方が王位という座の魅力よりも強かったのではないだろうか、それゆえに、諍(あらが)うことなく、越来での遁世を、そして、その先(結果的には半年という短い生涯)を送る気になったのかもしれない。また、尚宣威は尚真を優れた王となることを予感していたのかもしれない。第一、第二王統を通じて、50年という在位期間は、もちろん若くして即位したという条件があるものの、やはり長い。ざっと、尚真の時期を振り返ると、評価に善悪が裏返しにあること、あるいは当時の琉球貿易が追い風にあったことを横に擱くとしても、国の基礎を固めたことは事実である。そのような未来を幼い甥の姿に宣威はみていて、兄(尚円)にかわり父親となっていたのであろうか。幼い尚真も宣威叔父を近しく想っていたであろう。その分、母、オギヤカは疎んじられていった。宣威が退き、真が即いたのは、そういう事情だったのかもしれない。当然、宣威の娘である居仁は父親にひっついて、真とは幼なじみの従兄妹(従弟姉かも)であったのであろう。尚真王と王妃の関係になるのは、「二人の親」である宣威が斃れた10数年後と想像できる(尚真30歳前後)。その年(1494年)、浦添朝満(尚維衡;しょう・いこう)が生まれている。
 以上は、ある意味、お家騒動のような出来事であり、1477年(尚宣威が即位〜退位〜崩御〜尚真が即位した年)は、京ではお家騒動の集合体のような「応仁の乱」が収束しつつあった。どこも、騒がしかった時代でもある。本土では、こののち、下克上を迎え、世の中はますます混乱期を迎える。
 琉球もまた、宣威の想いが影響を及ぼす世情がしばらく続く。次回は、維衡について。そして、尚寧(しょう・ねい)に馳せてみたい。