曖・昧・味(I MY ME)

 ひところ、ファジィ(Fuzzy)という言葉が使われた、主に家電業界であったように思う。ネットを検索すると、89〜90年、元号というものの切り替わりの時期と重なっている(こちらは全くファジィでなかった)。洗濯機、掃除機、レンジ、炊飯器、エアコン、扇風機などに導入された技術のひとつで、従来の固定形な作動ではなく、不定形に動くように、例えば、以前の扇風機は羽と首(扇風の部分)がひたすら忠実に一定間隔で回る、首を振る動作を繰り返していたけれど、ファジィでは高原の「風」風とか、強・弱・強…を交互に繰り返したり、あるいは首が上下左右に…これはなかったと思うけれど、自由度の高い制御が可能であった。したがって、従来のような画一的なニーズのみならず、いくつかのニーズ(わがまま)に対応した技術であったと思う。日本人はアイマイな人種だと、ひところNOといえる…(90年)などの著作もあり、「まぁまぁ」決着を慎んで、もっと白黒をはっきりさせよう、という気運もあった頃、ファジィが突如として登場した。世の中がイケイケにあった頃でもあり、わたくし的にはずいぶん印象的な言葉であったように思う。今、その言葉は使われないけれど、家電技術の系譜として、受け継がれているようである。
 これまた、ずいぶん前の話であるけれど、フェイルセーフ(fail safe)という言葉を航空小説の中で初めて知った。直訳すると「失敗_安全」で、失敗(ミス)のための安全策とでも訳すのだろうか。航空機でいえば、あまり起きてほしいことではないけれど、万が一、第一エンジンにオイルが流れなくなっても、あるいは、エンジンそのものが停止しても、第二、第三、第四がその瑕疵(トラブル)を庇護(カバー)するように予め設計されているらしく、二重三重の防御(安全)策をとることイコール、フェイルセーフということである。詳しくは調べていないが、自動車や鉄道においても同じ原理は活かされているはずではあるが、先のJR西日本では機能せず、多大な悲劇を生んだ。ファジィといいフェイルセーフといい、発想の底には前にあげた白黒という両極の事態、状況を避け、なるべく、幅をもった周到さを物事に要求していることであり、ほぼ同義語として、慎重居士あるいは石橋を叩いて渡るなどがあろう。このアイマイな味(趣き)こそが予想を超すほどの事故やトラブルを最小限に食いとめる制御のはずであるけれど、上のJR西日本では技術的なアイマイさ(フェイルセーフ)は導入されてはいただろうものの、ヒトの方に全く、その考えがなかったばかりでなく、「まっ、大丈夫だろう」という精神部分のファジィが作動したことにより、大きな悲劇を生んでいると分析できる。こうしてみると、ファジィもフェイルセーフも本来は技術的用語なのであろうが、ヒトにとっても欠くことのできない技術ではないだろうかと思うことがある。慎重居士や石橋…は、解釈として、やや揶揄としての色が強く、どちらかといえば、奨められる技術ではないと思われがちであるけれど、やはり人間は「技術として」用意周到さ、あるいは曖昧さ(これも否定的な意味にとらえがちであるが柔軟さと同意と考えれば、意味の重さが分かる)を心の底にしっかりともっていることが必要ではないだろうか。ただ、しつこいけれども、JR西日本は、あるいは世間一般をも含めて、ファジィもフェイルセーフも技術としてではなく、手練あるいは、手管として、いわゆる二枚舌、ウソの上塗りとして、誤って使っているにすぎないと断ぜられる。
 心の内というものは、おそらく、常に曖昧さが、あるいは矛盾と表現してもよい葛藤がいくつも行き交っているものだろうけれど、ファジィもフェイルセーフも心の中の整理として使われることについては一向にかまわないと思うけれども、心の外で、すなわち言として露わにする際には使うべき技術ではないと、曖昧に生きてきた、わたくしだからこそ、以上のことを、曖昧でなく、明確に断じることができると思う。曖昧_me。