パソを捨てよ書を読もう

 標題はもちろん、寺山修司氏の「書を捨てよ町へ出よう」のありがちなトレイス(trace)〜パクリである。ここのところパソコンに向かう時間が長く、自問自答していたが、加えてマウスのご機嫌も悪いので、この際、(しばらく)一切絶とうと思いたった。

[閉じたパソコン]

パシ閉じて100919

 電車の中などでは、できるだけ車窓を眺めようとしているが、使い慣れた路線(あるいは地下鉄)では書に向くこともある。したがって、リュックには一冊か二冊か納まっていて、気分によっていずれかを眺めることにしている。

 本日(9月20日)は車内にはいないが、それ(パソ閉じ分)を書に充ててみようということである。

 が、切れた。

 すでに予想していて切れたものはコーヒーとクリーム、そして予期せぬ電球切れも。

 仕方がないので、

 町へ出よう。

 用事を済ませる前に百本屋さんに寄って、一冊求めたが、なぜか税込みで80円、キャンペーンだという。もう少し買えばよかったかと思ったが、棚方向に引き返すのもみっともない。

 全て終えて、戻ってきた。白熱燈を環境にヤサシイモノに換えようかと思っていたが、口径表示が一致していない。見た目は同じだが、果たして、部屋の天井からぶら下っている照明器具に合うものかどうかも分からない。店員さんも?なので、今回はヤサシクナイ方を選んだ。あと2年もすれば?その歴史?も消灯する、その頃までには規格(口径など)の明示を願っている。今のままでは、かさばって仕方のない器具そのものをお店に持参し、確かめるしかないと、タイヘン困っている。パソの革命はUSBだと勝手に思っているが、家電というのは何故こうも異なっているのか、嗜好(好み)がある所為なのだろうか。ダイヤを散りばめたシャンデリアも裸電球もできればユニバーサルデザインでお願いしますΩ

 求めてきた80円本を早速開いている。池波正太郎さんの「新 私の歳月」(講談社文庫)という随筆集である。元となっている単行本の刊行が86年5月とあるから、おそらく84〜5年の執筆ではないかと思う。少し読むだけで、当時より世の中がいかに体たらくであったかが分かる。最初の章は「昔の東京」、氏が生まれた大正12(1923)年から昭和初期のお話、まだ、あちこちに体をなす所作があった頃である。ホンの賭場口であるが、随所に鬼の平蔵のこともでてくる。残り200頁以上あるので、じっくりと読もう。

 パソコンから書という移行は所詮「内向き」社会といわれる今を象徴しているようで、寺山氏の謂う外向き(町へ出よう)にはならない。あの時代(60年代後半)はおそらく、内より外に興味なり楽しみ、刺戟があったのかもしれない。わたくし自身はそうは思わなかったけれど、世間的にはそうであったのだろうか。このことについては、いずれ、また。

 リュックのお仲間

『福州琉球館物語 歴史と人間模様』
多和田(たわた)真助(しんすけ)氏著、おきなわ文庫(ひるぎ社)、1989年刊

 ⇒ 絵日記おきなわ/16.OCT(拙ブロ:07年10月17日付)

イスタンブール〜世界の都市の物語』
陳舜臣氏著、文春文庫、1998年刊

 パソのお仲間

『ブルボン・バタークッキー』

パソッキー100919