ばり、あるいは、ばら、あるいはハレ

 幕の内弁当のご飯は俵型であることが多いように思う。たいていは底でつながっていることはすでに記した。鯛焼きやたこ焼きは逆で底は独立しているけれども、表面はつながっている。型のイッコイッコごと丁寧に粉と具を(はみ出さないように)落としている職人さんを見たことがない。以前はゐらした、多摩川沿いの鮎焼きの方もそうであった。今はどうかは分からない。
 プラ(スチック)モデルもつながっていて、部品ごとに離して模型を設えていった。わたくしは不器用なのでその経験はほとんどない。バリといったか金型加工の工場を訪ねた際に余計な部分(片)を削って、「正式」な象(かたど)りをされていた。その際、バリ取りだと教わったが、鯛焼きやたこ焼きの場合はわざわざとらなくても良い、そのほうが(バリ分)得をした気分になれるのかもしれない。志゛まん焼き(拙ブロ:10年7月4日付)もそうだが、上田のはキレイに成型されていたように思う。得はしていないかもしれないが旨しい。

 バリとは、ギザ十のギザギザ(BURR)をさすそうである。

 おすしというと「どちら」を想像するだろうか。どちらというのは、いわゆる握りずしなのか、ばら(まつり)ずしあるいは押しずしと謂われる方かということである。わたくしは後者である。握りずしを食べたのはおそらくおそばを食べたずっとアトではなかったか。貧乏であったという理由もあるが、町にあったおすし屋さんに行ったことはなく、丸桶の出前すしは上客が我が家を訪れる際に取ったかどうかぐらいの記憶で、だいいち、我が家に上客が存在したかどうかさえ危ういし、ゐたとしても、わたくしたち子ジャリの分まで注文しているはずもなく、その客が食べ残したとも思えないから、結局、ジャリの頃にシャリ(ご飯=酢飯)とネタ(生サカナなど)が一体化(二重層化)したSUSHIと謂うものを食べたことはないのではと、書きながら、自分の食歴のある部分を結論づけてみた。
 初めて自前でおすしを食べたのは上京して最寄り駅近くにあった当時としては画期的で、おしゃれ〜(トレンディー)な回転ずし屋さんであった。まさにトレンディーで一定方向(最近行っていないので分からないのだが、どっち回りなのだろうか?〜いずれ拙ブロで)を律義に廻っていて、それを観ているだけでも楽しいし、再会したりしたら、なおさら嬉しいという想いになったことがある。もちろん再会するだけで、また再見、食べることはない。
 おそばは立ち喰いで何度か食べていたが、盛り(冷たい)そばは回転ずしよりもあとで、しかも流転(流しそば)していたことが今でも強く心のどこかに残っている。おそばの本場といわれる信州でアルバイトをしていた頃のことである。

 すしはというと、やはり、出前のSUSHIよりはもっと大きい桶(タライみたいな)にぼさ(バサ)っと詰めこまれた?ばらずし?の印象の方が圧倒的に強い。種(具)は干し椎茸煮、浅蜊煮を中心に絹さや(さやえんどう)などの菜モノを添えて、これを金糸(錦糸)玉子と桜でんぶとを半々に冠せるから、金色と桃色が鮮やかで、そのうえから手で揉んだ海苔をふりかけていたように思う。しかし、?これすら?平時にはありつくことはできず、葬・祀時に限られていた。只今も例えば親(ちか)しい方の通夜などでおすしが供されるのは喪主側が何かと忙しく、哀しみの中で食欲があることさえ忘れていることを慮って、手っ取り早く食べる(抓む)ためだと思っていたが、もう今では定番化していて、誰彼構わず弔問客に対しても「おすしでも食べてください」というスシテムに変わっている。もちろん、生もの(サカナ)はなく、お稲荷さんや干瓢まきの類(助六ずしもね)だと思いこんでいたが、最近は平気で生を供しているらしい。背に腹は変えられぬ、死んだ(亡くなった)者の発つ瀬よりコッチ側の腹もちの方が大切なようで、スシネタの活きの良さを売り物にしている葬儀屋さんもあって、ビックリした。
 
 わたくしにとって、おすしは上客が来た場合と記したが、その客はたいてい死者である。それはSUSHIであろうと、バラであろうと、変わりはない。

 彼岸がまたやってくる。

 二、三日前からか夏蝉の音が途絶え、秋蟲の啼きが聞こえてくるようになった。

 ただし、オオシマゼミはこれからクァンクァンと騒がしくなる。