ADEU〜UEDA

 鴎外は明治23(1890)年に上田を訪れている。再訪なのか、度々なのかは分からない。すでにこの年『舞姫』を世に送っている。そして、やはり?うえむら?に逗留している。北游日乗では植村と記しているが、「みちの記」には上村とある。鴎外が北国に向かった明治15年頃には旅館上村館はなかったと想像できる。北游には「植村といふ家」ともあるから、今で言えばホームステイ、植村さん宅にお邪魔したという解釈もできる。日光・金谷ホテルもそういう成り立ちだった。金谷カッテージインをヘップバーン(ヘボン)博士が逗留した金谷家に提案したように(金谷ホテルの歴史)、植村(上村)さんに鴎外が、というのはこじ付けでしかないが、先を急いでいたため、確認はしていない。徳島県立文書館古文書目録に長野県上田海の(ノ)町・上村半左衛門の名がある。明治43年および45年の書簡であるが、もちろん手許にあるわけではなく、今のところ、結びつけるアテもない。
 その背後を通りながら、原町(通り)に出る。原町は上田駅からツンと真っ直ぐに延びた道であるから、旧北国街道のうちでもっとも繁華でもある。その分、味気もない。道沿いにある池波正太郎さん所縁の真田太平記館も今回は素通りである。
 蛯沢川が矢出沢川と合わさるあたり柳町付近で立ち止まった。川向こうに恵比寿神社と大神宮が地図にあるがカット。保名水という「水道口」があって、今も日用されているのであろうか。

[川向うに]

街中流れ画像0207

 わたくしが今向かおうとしているのは紺屋町である。柳町に、こんなのもあった。

[おそばやさんである]

北国街道兵馬 北国街道兵馬2画像0203

 観光案内所で頂いた地図上でも紺屋町付近はより狭くなっている。これを進めば長野善光寺、高田、直江津と続くが、そこまでは無理である。
 紺屋町は染物の街である。通りにほぼ並流する矢出沢川で染め洗いしていたのであろうか。藍は哀、決して楽な生業ではないと聞く。今はもう続けている処は2店舗程度か、電子地図はそう云っている。ただし、処どころに?情?が残っている。此処まで歩いてきた横町、海野町、原町、柳町の通りは短い距離を小まめにほぼ直角に切られているが、紺屋に関しては隣町の常磐城(ときわぎ)までのおよそ1.5キロが長くて、正直である。わたくしの眼では敵わないが、果ての景色までを見通せるほどである。

 小旅館やこ洒落た診察所などがあり、柔らかで静かな風が向こうの山から吹いてくる。

[紺屋町付近]

紺屋画像0208 紺屋2画像0209 紺屋3画像0210

 市立博物館に着いたのは午後1時を過ぎていた。3時前には列車に乗るつもりでいる。國友藤兵衛一貫斎の天体望遠鏡は一頭の位置にあって、光っていた。そのことはもう記したので重ねない。2階にも展示室があり、そこで、柘榴(ざくろ)石をみた。和田峠といって下諏訪町と旧和田村の頂き付近に埋まっている。研磨材としても用いられており、硝子をこれで刻んで切子ができる。(拙ブロ:妙心寺?心妙?記の貮(学林)09年12月11日付)
 
 永楽銭紋(永楽通宝紋)とともに亀姫様がお輿入れした仙石氏の紋(旗印)「丸に無の字」もあった。なんとも清々しい。仙石は100年足らずの小諸・上田在城のあと、同じくそばの美味しい出石(いずし)へと移封、信州から但州へとそばとともに転じたという説もある。

丸に無の字上田市デジタルアーカイブより)

出石皿そば巡り巾着セット(但馬國出石観光協会より)

 ADEUとはカタルーニャ語でさようなら、いったん、上田とも別れなければいけない。もともと思いつきでの訪問で準備も覚悟もしていなかった。ただただ、この連項の最初に記したように國友にふれたかっただけの想いのみである。繰り返すが、この?しゃき?とした街へはこれからも何度かと。

 さて、メッシもADEU(去った)。カタルーニャの都で活躍することを願っている。ファイナルに残ったスペインにはこの都のチームに在籍している選手も多い。一方は切子の親(輸入元?)でもあるギヤマンの國オランダ。

 果たして、どちらが、初めてのリメを獲得するのか?もっとも、わたくしの予想は疾うに外れている。

 ⇒ メッシ放光(09年12月22日付)

 ⇒ 外れっ放しの予想妙心寺?心妙?記の番外、差し詰め、龍安寺のような。09年12月16日付より)