北国(ほっこく)街道
宿(駅前)から市立博物館のある上田城跡までどう転んでも10数分の距離にある。しかし、翌朝(9時頃)わたくしはお城と逆の方向に歩き始め、そこへ着いたのはお午過ぎのことである。お得意の「迷った」わけでもない(一部そういう箇所もあったが)。ご城内を訪ねる前にしておきたいこともあった。
それを標題とした。
「上田城跡公園周辺案内」(駅の観光案内所で頂いた)が拠り処であるが、そこに旧北国街道が太く堂々と標されている。まずは、この道筋を辿ろうと想った。今、上記地図範囲の東の限界近くに記されている常田(ときだ)をめざしている。新幹線ならびに?しなの?鉄道と並行してまだ上田がほかの信州の各地あるいは日本そのものと同じように絹で生きていた頃の繭倉(乾燥させた繭の保管庫)と常田館(旧製糸場、現在は展示施設)のことである。その前に「上小」という文字が目にはいった。以前は上田と小諸あたりをそう呼んでいるのかと思っていたが、上田と小県(ちいさがた)だとずいぶんあとになってから知った。今はもう合併などで小県郡は1町1村でしかない。ジョウショウと読む。
北の国青森に行くと天気予報で三八(サンパチ)と謂っている。これもやはり当初、三沢と八戸かと思い違いをしていたが、三戸郡・八戸市一帯を総じ称している。
三八五・・・八戸あたりでよくみかけるが、こちらは三戸、八戸、五戸のことであるらしい。ミヤゴと読む。
小諸は佐久、三沢は上北(かみきた)に在る。
[上小漁業協同組合]※鮎釣りの季節である
信州のお隣上州富岡に遺(のこ)る世界遺産登録暫定リストに記載された富岡製糸場は明治5(1872)年に設けられた国内最初の工場でこちらは官営である。常田館というのは明治33(1900)年、現在の笠原工業株式会社による製糸場のことである。当時の生糸は国にとって重要な輸出品でもあった。逆に江戸時代以前は輸入品であって、琉球は絹貿易で栄えた面もある。
生糸の生産は?笠原社?のような民営企業の登場で明治後期、20世紀となって増産を続け、大正を経て、昭和9(1934)年をピークとする10年あまりは70万俵(1俵=60キログロム)を産し、8割がたは海外へとしゅすい(※出)された。(※車偏に兪)
しかし、昭和13(1938)年ナイロンの登場が蚕糸の産業としての価値を翳(かす)めた。
[生糸の生産、輸入量]
(総務省統計局の長期時系列資料より)
絹(シルク)はフランス語で?soie?(スワ)〜諏訪も製糸業が盛んな場所であった(片倉社など)。ちなみにスフと云うと人絹(レイヨン)である。
戦争というのはさまざまな背景があって起きるのであろうが、第二次大戦に至ったひとつに「蚕とナイロン」という事情もあったと考えることもできる。生業を掠めとられた腹いせというと乱暴であるが、それに似た腹の蟲が内臓のどこかに寄生していたと想っている。
それでも敗戦後、経済の復調とともに和服が見直されるが、もうすでに国内養蚕・蚕糸業事情はそれに応じることはできず、中国、韓国、北朝鮮、ブラジルなど、輸入という明治維新前の状態に戻らざるを得なかった。
生糸生産量と和服消費量(家計調査、1世帯当り)を示すグラフの線形が似ていて、哀しい。
上田の街に戻る。
電子地図で検めると1万坪ほどの中にも繭倉らしき構築物がある。あいにく本日は土曜とあって操業はしていない。そのためであろう公道と用地との間にある張ってある横縄を少しだけ侵させていただいた。
[繭倉]※ここは道沿いにある
[笠原社]※休業日で、詳しいことは分からない。サイト ⇒ 笠原グループ
どうしても笠原の煙突が気になって、隣にあるSCの屋上(駐車場)から撮ってみた。SC自体も嘗てあった製糸場として程好い規模である。北国街道の向こうには信州大学繊維学部もある。
[旧製糸場の屋上から]※でも、はっきり写っていない煙突
壬午(じんご)の歳、二月二十五日
晴れたり馬瀬口のうまや路さして浅間山の麓を遶(めぐ)る
山烟掩天暗 焦土不堪耕 磊々路傍石 曾生自火坑
これより芝生にて古松おほき道に出づ小室なる和志屋にて昼餉たうべ田中を経て上田に着きぬこよひの宿は植村といふ家なりき
以上、『北游日乗』の条である。
森鴎外は明治15(1882)年、軽井沢、小諸(小室)を経て、上田に踏み入っている。まだ、常田館もSCもなかった。 (続)