上田・七夕

 東の人は気が逸(はや)いから、もう七夕やお盆の準備をされている。日本三大・・・はアテにならないけれど、間違いなく関東一の七夕は平塚であろう。他に阿佐ヶ谷や千葉・茂原などが有名らしいが、要するに歳末と並ぶ商店街の大売出しの催事であるから、星の数ほど各地で行なわれているΩ。平塚は今夕あたり盛りあがったのだろうか。
 北国街道、常田(ときだ)の東側が上田ご城下への進入口で、ここらあたりを踏入(ふみいり)と謂う。
 「七夕文化」というサイトの中に【日本の七夕行事100選】があり、三大でなく、百なので、かなり知られていないタナバタもあるなぁと感心する。もちろん、この中には先に記した商店街の催事ではないものも含まれている、だから行事百選なのであろう。
 そこに「踏入の天の川」という記事があって、それを知ったのは最近のことであるから、当然わたくしは一歩手前で行くことはなかった。
 少し引用する。この地区に古くからある井戸を七夕の時期にあわせ、井水を汲み上げ、中をキレイに掃除する井戸替えを行なうそうである。旧暦の七夕頃はもう空から梅雨の垂れ幕もとれて大雨が降る気配も薄らぐため時節が良いのであろう、また、蒸し蒸しとした一ヶ月で増殖した細菌やカビを除去するという衛生上の理にも適っている。以前、拙ブロ(パソコンに憑く神(様)もゐらっしゃるのだろうか、10年3月18日付)で所沢の焼きだんご屋さん(つくもがみ)について記したが、井戸もツクモガミ(憑喪神)なのであろう、七夕の井戸替えは住民の感謝の標しでもある。

 さて踏入では井戸替えにあわせ千曲川で採取した砂を用いて「天之川」という文字扁額(ただし、砂だから垂直に掲げない)を作り、旧暦の宵祭りに線香を点てるという。平成7年、50年ぶりに復活したというこの歳事(祭事)は上記サイトが17年、今年も行なわれるのかどうか確かめていないが、昨年はあったらしいから、もちろん(今年も)続くと想っている。いつか、訪ねることがと、これも想うばかりである。

 只今は街道沿いの海野町(うんのまち)商店街の七夕が盛大だそうである。この街の住人は上田の手前でなお宿場町の風情を残している海野宿(郷)から移り住んだといわれ、上田市の商業(市場)の中心地でもある。いずれ、そこへ向かうのだが、まだ、ずいぶん先のように感じる。

[北国街道]常田界隈

北国街道 北国街道2画像0174 北国街道3画像0176 

北国街道4画像0177 北国街道5画像0197 北国街道6

 現代の道路事情から申せば、邪魔な家屋としか云いようがない。左(家屋横)の脇道が北国街道(踏入の天之川側)にあたる。敵の侵入を遅らせるため、わざと道を直角に造る「枡形」の名残りであろうか。くれぐれも運転にはご注意を。(信号機もないようだし)

[旅先中、もっとも晴れた日である](4月24日)

科野神社3画像0170

 画像の左手前一画に科野大宮社(おおみやさん)が在る。枡形とともに敵方の心を一瞬、逡巡させる。

 ?しなの(信濃)?の旧字体を科野と表わす。その名を冠したお宮さんである。とにかく大木・古木が印象的である。

[おおみやさん]

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 もう佐久間象山でもないが、いや少しはあるのだが、街道を数百歩進んだ処に「常田毘沙門堂阯」がある。活文禅師(鳳山竹庵)が開いた私塾「先賢問道處」(多聞庵?)が此処に在った。(なぜか、画像を逸している)

 同じ松代藩生まれの師を仰ぎ、象山は塾に通ったという。禅師が開塾したのが文政12(1829)年とあるから、家督を継ぎ(文政11年)、江戸への遊学を果たす天保4(33)年までの象山18〜22歳の頃であろうか。

 その後の象山の足跡(結果云々は別として)あるいはそれを接ぐのは吉田松陰勝海舟坂本龍馬(?)などであるが、その基として松代藩家老鎌原桐山(象山が江戸遊学の門を叩いた佐藤一斎の門下)といい、禅師といい、このあたりの事情が、上田を?しゃき?とした街であると想う理由である。

 横町を経て、海野町に向かう。(ニ続)