上だ下だ

 上田藩というのは云うまでもなく真田氏が40年間治めて、その間、信繁(幸村)のような伝説の士が登場する。以前、大阪を訪ねた際終焉の地というのがあって天王寺動物園の脇、逢阪の向かいにある安居(やすい)神社がそうだと謂われている。そこで幸村も安らかに居(ねむ)っているということか、と、それはわたくしが勝手に想っているだけである。

 真田衆が戦った天正〜元和の時代にはすでに銃器(火縄銃)が主力となっていた。諸説あるが天文12(1543)年の鉄砲伝来からすでに半世紀ほど経っており、伝来から30年ほどあとに長篠で織田信長は3千挺を駆使し、武田軍を破ったとされ、関ヶ原の合戦では5万挺が使われ、その当時「オールニッポン」で30万挺を保有、世界の50%を占める鉄砲大国であったともいわれる。ただ、欧州では14世紀(1381年)に鉄砲が、30年後(1413年)には鉄製大砲が世に出ていて、その後の戦いに用いられていることを考えると、やはり遅れているナ、ジパングは、と、2位ではいけないですかではなく、せめて1位グループにいる必要はあるのであろう。
 国内において象山や高島秋帆らが砲術(大砲)を手がけるのは19世紀のことである。ただし、だからといって武器(兵器)を作って、儲けようということにはつなげたくない。

 上田城櫓にのぼると壁をいくつか貫いた跡があり、そこから外の景色を窺うことができる。鉄砲狭間である。真田ももはや鉄砲の時代にゐた証しである。
 
 滞在中(たった1泊だけど)そういうことばかり考えながら、上田の街を歩いていたわけではない。まだ新しいといっても差し支えのない上田駅にある観光案内所で頂いた地図を頼りに明日、櫓へ上田の街へと、上に下に廻ってみるつもりである。
 
 この夜は?幸村?という呑み屋さんに腰をおろした。以前、ビルの上が宿(今もそうであるが、今回わたくしが泊ったのは別宿)で、その際は外へ出るのも面倒くさいのでそのまま下りて、はいった。それがもう10年以上前になる、応仁・文明の大乱どころではないかもしれない。もちろん、お互いもう憶えていない。だいいち、ここだったかも分からない。同じフロアに他のお店もある。そちらの方へ行ったのかもしれない。そういうあやふやな状態であったが、お互い、こそっと、相手をうかがいながら、きっかけを待っている、そういう状態を結局最後まで続けて、火蓋を切らずにお店をあとにした。

 少し、歩くのにおつきあい願いたい。

[六文(連)銭の街]

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