武器戦の時代補記〜遠眼鏡〜上田にて

 応仁・文明の大乱(応仁元〜文明9年/1467〜1477年)というのは一般的な謂い方ではなく、わたくしどもは単に「応仁の乱」と言い包(くる)めている。理由はその長さによる厭気からである。只今と時間の感覚はずいぶんと異なっており、仮に1年(500年前)=10年(今)と考えると想像すらできない長さである。実際にはその四半世紀前から火種があったというから、1年=1年と考えても、やはり厭きる。そのような長い戦さが成立したのも武器の違いがあったからなのであろう。

 いうまでもなく鉄砲伝来が列島での戦い方を変えた。

 信州上田に向かったのはそういう事情もある。(4月23日)

 上田市立博物館の冊子をみながら書いている。ここに國友藤兵衛一貫斎による天体望遠鏡が残っていると知った。この?しゃき?とした街を訪ねるのは初めてのことではない。ただ、遠眼鏡のことは最近知った。

上田市立博物館所蔵の國友藤兵衛一貫斎作天体望遠鏡

 一貫斎という人はそう遠くない人で18〜19世紀をまたいで生きていた(1778〜1840)。この時代というのは家治、家斉の治世で、井伊直幸大老にいた。当然ながら、近江の國友は200年前(応仁・文明の大乱のわずか数十年後)に伝わった火縄銃の鍛冶職人として頭角を現わしていた。もちろん近江出身という理由だけではない、それだけの才を備えた集団だったからであろう。

 わたくしが一貫斎を知ったのは佐久間象山について考えていた頃である。もう少し詳しく書くと、天体望遠鏡を想っていたからである。象山は何事にも並外れて関心が強く、証しはないが遠眼鏡にも挑んだ伏(ふし)がある。実際、寫眞機(留影鏡)を製(つく)っている。(自ら製(つく)って、自らを留(撮)った佐久間象山と日本の歴史より)

 武器にはふたつあって、攻めるを専らにする銃器、火器の類と、守りを主とする測量、作戦(戦略立て)そして観察・記録(遠眼鏡など)、今でいえば情報の「器」とに分かれる。一貫斎がどのような背景で前者を捨て、後者へ傾倒していったかは今の時点では想像しかできない。当時としては比較的長く生きた人なのであろう、27年後には江戸は明治と変わる。もう、武器の時代でもない、そう単純に考えてしまえば、それでことは足りるが、そうもいかない。だいいち、明治以降武器はより殺戮化していくのだから。

 もともと、世の中をみる眼が異なっていた、これも単純な考え方であるが、妄想が勝手に拡がってくれる。

 わたくしが一貫斎を想う時、ふたりの参考人がゐて、ひとりは15世紀、現在のウズベキスタン共和国サマルカンドウルク・ベクという若者が天ばかりを観ていた。彼も「林」(学校、塾、寺子屋)を育てている。ウルクベク・メドレセ(マドラサ) という。メッセの語源はミッサといわれるが、もしかしたら、こちらの方かもしれない。彼を追いかけてサマルカンド、シャフリサーフスを訪ねたのは83年のことであるが、以来、まだ、何も追いきれていない。

 備前表具師幸吉(こうきち)については飯島和一氏の『始祖鳥記』でしか知らない。玉野出身と聞いていたが、たびたび其処へいくも、関わる処へは一切、訪れていない。

 べクは別としても、一貫斎と幸吉は同じ空を同じ時分に眺めていて、同じように空をめざしている。

 所用の帰り、まだ明るい空に二十三夜待ちの月を眺めながら、わたくしもいつか、そこへ向かって飛んでみたいと、訳の分からぬことを想っていた。

 以上のこと、上田を中心に少し考えてみる。

 拙ブロ(武器戦の時代(妙心寺?微妙?記)〜象山と坦庵〜/09年12月20日付)