屈(こご)み

 4月半ばに訪ねた福島市のお話で、これが最後(のつもり)である。
 
 逗留した二晩同じ居酒屋さんにうかがった。季節の野菜から魚、肉、その他、とにかくメニューが豊富で、お品書きを見ているだけで楽しい、おなかが脹らんでくる。だからというわけではない。もともと少食で、肴(食)は最低限、お酒(呑)は最大限という具合にわたくしの内臓はできているらしい。したがって、あまり注文をしない良くない客であるが、この夜(初日)はお店に来る前に採ってこられたという山菜を戴いた。

 コゴミの酒粕漬である。コゴミはその名のとおり先芽の方が屈(こご)んでおり、カウンターに座って少し猫背でグラスを傾ける容にも見えないこともない。ワラビ、コシアブラなどとともに季節の味である。

 これがイケなかった。

 あっ、料理自体はたいへん旨しくて、残らず頂いたのだが、最初のビールから、なぜか品揃えにある泡盛(水割り)に変えた頃から、自分の調子がふだんと異なっていることに気づいた。

 顔、真っ赤です〜〜〜

 とカウンター越しに云われて、客観的にもそうだということが確認できた。

 ただし、量的には度を越すほど呑んでいない。(つもりである)

  はぁっ〜(わたくし)

 原因が分かった。コゴミに用いている粕だった。

 これは、純米・吟醸のカスです〜ぅ。

 ふだん、日本酒を飲まないので、すっかり、これ(カス)にやられたようである〜。

 酔い醒まし(遅すぎる追い水)に泡盛の水割りというのもなんであるが、そうした。水を勧められたがお手間をとらせてはいけない。悪い客なりの心遣いである。

 二夜目。

 そのこと(粕で酔って、泡盛で醒ます)をほかの方に話されていて、関心と呆(あき)れが混じった眼差しを空きのなくなったカウンターの列全体から感じる。

 隣に座っていらっしゃるお客さんが、

 「つまり、蒸留に強くて、醸造に弱いということですかね〜ぇ」と仰言られた。

 (戻って)検めると、醸造酒は原料を醗酵させ、その状態のままで飲用する〜日本酒、ワイン、ビール、アジア各国で呑まれているライスワイン(日本酒もそのひとつか)などを指す、一方、蒸留酒はもう一段階加えたものでウヰスキーウォッカ、焼酎、泡盛など、とある。

 醸造酒は本来の姿に近い野性味のあるお酒で、蒸留酒のように加工(加熱によってアルコール分を高くする)されておらず、自然(原料)の深みがある。アルコール度数は低いがどうしても越えることのできない崇高な味わいがある。
 わたくしが今、度数の高い蒸留酒を呑んでいるのは、手っ取り早く酔いたいという気もちもあるが、醸造酒の高い壁に直面しながら飲む(呑むではない)ことができないからでもある。

 人もこれに似ている。誰もが生まれてから、ある年端までは同じ度数で遊び、学び、時には喧嘩(言い合い)をしたりしていたが、ドコカの時点で醸造のままイイ感じで大人になっていく者とあるはずのない成長を求めて蒸留されていく者とに分かれていく。醸造に深みがあると書いたが、蒸留にだってないわけでもない、中には上等のブランデー(コニャック)やスコッチのような人間も存在するが、間違えれば、わたくしのような低級な蒸留酒を作る羽目になる。

 蒸留酒を卑下しているわけではない。世の中(わたくし)をそうみているだけのことである。

 「呑み」屋さんのトイレにお客さんが短冊に託したメモ・メッセージが綴られていた。内容はお店の方への感謝の気持ちや家族のことなど、さまざまである。ノートが置いてあったり、自分の名刺に言葉を添えるのは何度か見たこともあるが、トイレでは初めてである。いったい、どこで書くのだろうか。確かにペンがぶら下がっている、ここで書くのであろう。

[トイレの伝言板

トイレ伝言板画像0148

 用を済ませ、振り返ると、その束が積まれてあった。

[お客さんの記憶の束]

トイレ伝言板2画像0149

 幸い、二夜目は粕を避けたお蔭で真っ赤〜〜〜にはならずにすんだ。かわりに食べたイカニンジンが素的。

 どの街も訪ねても同じであるが、ここでもまた置き忘れたことがたくさんある想いで、発たなければいけない。