もちつり

 雨を覚悟していた。風はあったが、着く頃には晴れ間がのぞいた。福島市に入ったのは21日(4月)の午後である。宿に荷物を預けると、もうフリー(閑)である。ただし、行くあてがあって、事前にバスの時刻と乗り場所を調べておいたが、やはり心配なので乗り込むと真っ先に運転手さんへの確認は怠らなかった。20分程度であったか、最寄りのバス停で降ろしてもらい、やはり念のため、そこで降りられたご婦人にお聞きすると、あの道をと畦を指して、少し歩きますよと気遣っていただいた。両手にこぼれんばかりの荷物を抱えていらしたので、むしろ、わたくしが気遣いをすべきであろう。そのような反省の意を込めて、お礼を告げ、向かった。

 拙ブロ(春日野の若紫のすりごろもしのぶの乱れかぎりしられず;10年4月3日付)でふれたが、ずっと考えていて、最終的には其処へ行こうと「決めて」いた。さいわい所用をみつけた。ちなみに「もじ(ぢ)ず(づ)り」ではなく、「もちず(づ)り」であると現地で知った。

[標題はこれ↓]

 濁音のない清んだ謂い方もあるのか、単に「づ」の「?」が外れてしまっただけのことか?も危ない。。。

もちつり画像0122

 数分歩いたところに「虎が墓」とある立て杭をみつけた。小さな崖の途中にあって近づけなかったが、その手前には虎女が身を清めたという清水が復元されている。

[虎が墓]

虎の墓?  虎のはか2画像0092

[虎が清水]

虎の清水画像0093  虎の清水2画像0103  虎の清水3画像0104

 その先に「信夫文知摺(しのぶもちずり)」(安洞禅院/文知摺観音)の三門があり、拝観料400円を納める。まだ花の残る境内には存外人がいらして、あれぇ?と思ったけれども、ゴルフよりやや大きい球と遊んでいらっしゃる。最初はそうとは知らず、彼らのプレイフィールドをうろうろ歩いていると声がかかって、同時にボールがわたくしに向かって転がってきた。それで気づいた。
 春日野の若紫の・・・とのギャップがあまりに大きすぎて、これから訪ねる記念館(傳光閣)でもそのことを聞く勇気もなく、未だに謎というのか不思議でたまらない想いである。

 もちずり石は歩いてほどない場所にゐらした。かなりの大きさである。

もちづり画像0105 もちづり7画像0118
もちづり60117 もちづり4画像0108 もちづり3画像0107

 あっけない出逢いに少し落胆した気もするが、わたくしには芭蕉や子規の才はないのだから、それも致し方ないことである。

 「早苗とる 手もとや昔 しのぶずり」

 芭蕉は同じ石を観て、そう詠んだという。展示の脇だったか、もとは「早苗つかむ」と脚注があったと記憶している。展示の書には真蹟(しんせき)とある、納められていた木箱の表書きに「二号」云々とあったから本物ではないのであろう。翌日、上田城を訪ねたのだが、そこでも秀吉や三成による筆(書簡)をみるが、本人の筆跡をまじまじと眺めることもそう滅多にないことである。もちろんワープロも、消しゴムもない時代である、何度も書き直していはいるだろうが、真剣の心が満ちあふれている。
 
 想わぬモノに遭遇した。集落を守るためにと役所より庄屋(?)に配給された火縄銃が横たわっていた。別段、銃器類に興味があるわけではないが、貼付の紙片に眼がいった。
 おそらく、銃砲刀剣類登録の証であろう、
 
 平成4年1月17日
 福島県教育委員会
 57545号
 
 並んで、

 万延元 寅申年 八月日■
 安中藩火鉋匠 国友重作
 鍛工 嶋村平助作
 
 とある。

 国(國)友については拙ブロ(武器戦の時代(妙心寺?微妙?記)〜象山と坦庵〜)でふれた。
 近江の鉄砲鍛冶師連中であり、中でも藤兵衛一貫斎は万年筆のもとを拵(こしら)えたり、自ら望遠鏡で宇宙を観測するなど秀色の人物であったらしい。上田に向かったのも城内の博物館に残っている彼の望遠鏡を観ておきたいと想ったからである。
 火蓋を切っていただいたようなもので、安中といい上田といい、もちろん國友の近江といい、井伊家との縁が深いが、いづれ、ぜひ、その里を訪ねてみたい。
 
 バスはやすやすと来てくれない、と分かっていた。大雑把に記せば宿までは4〜5キロの距離であるから、徒歩可能である。

 迷うこともあろうが、信夫山が誘(いざな)ってくれる。少し、歩こう。(続)

[花も残る「もちずり」]

もちづり桜画像0116 もちづり池桜2画像0115 もちづり池桜画像0114