江戸時代の歩行者は左側通行だった?

 時代劇(TV、映画など)をそういうつもりであまり見たことがないが、武士というのは市中では本差脇差を常に携えているから、向かって右(本人の左)に二本差しが納まっている。したがって、往来を歩く場合を考えると、今と違って歩車分離でもない、狭い路を武士同士がすれ違う場面ではお互いの刀(鞘)が邪魔になってはいけない、ぶつかってはいけないということで、暗黙のうちに左側を歩くという理屈が成り立つ。同時に、万が一、斬り掛かってきた時もすぐさま剣を抜き、攻撃に移ることができるのも、この(左側)の立ち位置が道理に適っている。
 一方、しがない町人(商人)はというと、原則的には理不尽、否にしても(いつ斬られるかも分からないので)お侍さんに近づかないだろうが、上記の立ち位置から考えると(しがない身分ですので、攻撃するつもりはひとっぽちもないですよという意思表示、自己防衛のために右側を通るべきであろう。そのまま進めば、お侍さんにぶつかるが、その場合は除ける。仮に(無いと思うが)町人(商人)が脇差しを潜ませていても、振りかざす前に右腕が跳んでいる。武士と町人では術の達し方が違っていたということである。
 実際に見たことはないが参勤交替の(大名)行列というのはどうであったのか、やはり左側通行と考えておいたほうが良いのだろうか。

 東の左、西の右は、そのことを示していて、東京ではエスカレーターの右を空ける(自分は左〜つまり武士のつもり)、大坂はみな商人である。

 もちろん、その前提には右利きがある。わたくしのような少数者には却って有利になるかもしれない。(剣術の腕は別として)

 本当にそうだったのだろうかと、

 国立博物館江戸東京博物館などでお見かけするアダチ版画研究所さんのサイトから歌川(安藤)広重の『東海道五十三次』を参照してみた。

 お侍・・・左5、右5、不明45(計55〜日本橋三条大橋を加えている)

 町人・・・左11、右14、不明30

 ご覧のように左側だとは言い切れない結果である。また、みた限りでは西も東もない傾向にある。お侍が少なく、町人を描いているところが広重らしいのか、そこは分からない。ちなみに客引きは4宿(品川、川崎、程ヶ谷、御油)あった。御油の先(京寄り)の赤坂宿は別の意味で趣(おも)しろい。

 全ては広重絵師の世界の中である。これでもって、江戸の左側通行説を否定するつもりはないが、なにぶん見ていないので、どうにも判断しようがない。右か左か、西か東か、さっぱり分からないままである。

[広重画による歩行の法則]

東海道53次(広重)通行の統計

 いくつか書店を訪ねて、教科書及び参考書類を眺めてきた。

 参勤交替の図があって、時計回りに、左側っぽく列をなしている画像をみかけたけれども、ほかははっきりしない。

 だいいち、歩いている様が描かれていない。

 もう少し、勉強してみる。