武器戦の時代(妙心寺?微妙?記)〜象山と坦庵〜

 一国の大統領がノーベル平和賞授賞式で述べた言葉について、ここでどうのこうの記すことではない。ただ、数ヶ月前の妙心寺を今になってブログ上で歩き、想っていて、下の一節が眼に留まった。

 The capacity of human beings to think up new ways to kill one another proved inexhaustible, (以下略) ⇒ (訳)人類が殺し合う方法を新たに考え出す能力を無尽蔵に有することは証明済みだ(47NEWSより)※リンク切れの可能性もあり

 佐久間象山は才という養分が身体の中に充満していて、誰の眼にもそれが体外に迸(ほとばし)って見えただろう。その容(すがた)を是と感じるか非とするかはそれぞれの個性、感性によるが、少なくとも象山書院に集まったのは象山の是を吸収しようと思ったからであろう。書院を開塾した天保10(1839)年には象山とともに佐藤一斎に学んだ渡辺崋山らが捕捉される蛮社の獄が起きていた。開国を20年後に控える列島近海には洋船が頻繁に航行、停泊し、薪材や水・食糧の補給を「要請」していた。幕府は眼前の五月蝿(ハエ)を追っ払うために「異国船打払令」(無二念打払令)を発効(文政3〜1825年)、不幸にもモリソン号を浦賀沖で砲撃する(天保8〜1837年)。崋山や高野長英らはそれに疑問を呈した。この際の砲手は中島三郎助といい、彼は荻野流という後発ながら稲富流、井上流 田付流といった先発をしのぎ江戸期最大の流派になった砲術を修めていた。ただし、彼の砲弾がモリソン号に当たることはなかったらしく、さぞかし和炮(〓)と洋砲の違いを感じたであろう。その後三郎助は幕府に尽くすが、箱館戦争において散った。
 少し戻るが、天文12(1543)年8月25日、種子島の南端にある門倉岬に中国船が漂着し、ポルトガル人がもたらしたのが日本における「砲」の始まりである(異説あり)。以後、戦いの肝腎は人(刀器)から武器(銃器)に移るが火縄銃の射程距離はせいぜい100メートルだったらしい。それでも当時の戦いにおいてはたいへんな脅威となった。しかし鎖国という平時において鉄砲技術(砲術)進展の歩みは遅く、しかも各流派の秘伝という知的独占権が歩みさえ阻んだ。それでも三郎助が放った砲の距離は火縄銃の10倍相当だったという。が、届かなかった。

 高島秋帆(しゅうはん)は長崎の鉄砲方の家に生まれ、荻野流などの和砲術を得ていたが、三郎助同様に洋砲との差を痛感していた。長崎という地の利を活かし、オランダ人らから砲術の知識を得るばかりか、洋砲を購入し、製作を試みている。秋帆が手にしたのは臼(きゅう)砲といって名の通り、これから年末にかけて出番が多くなる餅搗きに用いる道具を天斜に向けたような形をした砲であった。どの程度の射程距離であったかが分からない。

 《寛文16(1638)年、江戸麻布でドイツ人砲術師ハンス・ヴォルフガング・ブラウンが長崎平戸で鋳造した臼砲三門の試射を行なった。》ヨーゼフ・クライナー氏の著作『江戸・東京の中のドイツ』(講談社学術文庫)をみると標的は四町(約440メートル)であったが、いずれの砲弾も届かなかったとある。秋帆はそれから200年後の人であるからせいぜい1000とか2000メートルではなかったかと勝手に想像している。なお、麻布試射に立ち会った鉄砲方は井上外記(げき)正継、荻野流が登場するまで徳川三大砲術として受け継がれてきた井上流の創始者であり、もちろん、幕府に対してこの試射の結果をよく言うはずがない。そのことが日本の砲術を遅らせた理由のひとつとすることはできないが、それから225年後に勃発した薩英戦争(文久3〜1863年)において英国艦隊が放つアームストロング砲は3000〜4000メートルといわれており、その差は歴然である。
 秋帆が臼砲に目をつけ、和砲から洋砲へ転換を図ったことは当然であろう。韮山代官として伊豆・駿河の海事役を代々勤めてきた江川家の江川英龍(坦庵〜たんあん/たんなん)が秋帆に目をつけたのも道理である。天保12(1841)年、武蔵国徳丸ケ原(現在の高島平付近)で秋帆式洋砲のお披露目(演習)が幕臣の見守る中行なわれ、以降、高島流砲術が国全体を背負うことになる。
 どういう経緯なのか坦庵は秋帆に弟子入りすることになり、翌年、免許皆伝を得て、自らが開塾する。

 前置きが長くなった。

 佐久間象山は坦庵の門下として、砲術を学んでいる(天保13年)。この年、松代藩真田幸貫は幕府海防係(老中)となり、象山をもってその任務を充てる。しかし、3年後には坦庵とは道を分かち、自らの砲術を志した。「佐久間象山と日本の歴史」(独立行政法人 国立高等専門学校機構 長野工業高等専門学校)による象山の砲術、試射記録である。

 嘉永3(1850)年、松代城南虫歌(むしうた/むしおた)山麓で砲術を演じる。
 翌年、松代城西生菅村で大砲の射撃を演じ、幕領で紛争がおこる。

 試射はどうやら成功しなかったらしい。目標は一重(ひとえ?)山といい、16世紀に廃された屋代城跡地であったが、南に外れ満照寺境内に落下した。同寺は幕府直轄地であったことから幕領に爆落で騒ぎ(紛争)となった。今でいえば、しなの鉄道屋代駅直前に落ちるようなもので、この時ばかりは?自信家?の象山も肝を冷やしたであろう。なお生菅とあるのは生萱(いきがや)と思われる。それでも発射地の沢山川の土手(現在の本誓寺橋付近)からお寺までは直線距離で2300メートルあり、方位はともかくも射程距離は高島秋帆のそれを上回っていたかもしれない。同じ年、象山は松前藩より請け負い大森、姉ヶ崎(市原市)で試射を行なうがいずれも失敗に終わっている。どうも砲筒の質(耐久性)が原因のようである。薩英戦争で英国艦隊のアームストロング砲が発射時の力(振動、圧力などか)に耐え切れずひび割れたのと同じらしく、威力(射程距離を延ばすこと)の向上を急ぎ過ぎたための結末である。しかし、そのことが“new ways to kill”のためには必要であったし、以降の「砲」発展史を覘いていると人間は無尽蔵の能力を牽きだすことができるという証明を立てている。

 坦庵と象山(年下)はひと回りほど歳が離れているが、二人は師弟関係にもあったが、生来の敵(宿敵)いや天敵のような間柄にみえて仕方がない。象山の度重なる失敗をよそに坦庵は品川砲台場を築くなどその後の時代を支える一方で自らも危険にさらされながら崋山、長英などの救済にも動くが、安政2年(1855)年、病で歿す。象山はというと、坦庵死の前年虎之助(松蔭)に連座入牢、その後蟄居の身となるため活動にはかなり制限を受けたが、文久2(1862)年に自由の身となり、京に赴くが、3年後に斃れる。天敵と書いたが、二人は同じ方角を向いていたことには違いない。ただ、個性なり、仕方が異なっていただけかもしれない。
 二人の年譜を眺めていた。当時、不治の病といわれていた天然痘(痘瘡/疱瘡)の種痘が江戸に届いたのは嘉永2(1849)年11月という(参照1)。一ヵ月後に象山は前年11月に生まれたばかりの次男(恪二郎〜三浦啓之助〜一時、新撰組に所属)に種痘を施すと別の年譜にある(参照2)。象山はかねてから種痘法についても研究を続けており、弟子たちに伝えたというから、自ら接種したのだろうか、が、これについては資料が見つからない。そして、翌年に坦庵は実子に接種させている。施したのは佐賀藩の伊東玄朴である(参照3)。当然ながら、種痘の普及という大義は共通しているものの、時代の先取り、好奇心旺盛そして、やはり天敵として競う気もちがあったのかもしれない。
 
 その後、玄朴は他の蘭学医とかつてあった象山書林にもほど近い神田於玉ヶ池に種痘所を開く(安政 5〜1858 )。3年後(文久元〜1861年)、「西洋医学所」と改称された。現在の東京大学医学部である。
 
参照1「天然痘関係歴史略年表」(緒方春朔 −わが国種痘の始祖−より)
参照2「佐久間象山と日本の歴史」(独立行政法人 国立高等専門学校機構 長野工業高等専門学校より)
参照3「【天保期の方々】(9)【江川坦庵全集】戸羽山 瀚 巌南堂書店」(ジッタン・メモより)

 「事業仕分け」というのは作業を行なっていることはよく分かったが、その意味が一向に理解できないと思いながら、ネットなどに公開されているテキストを読んでいた。その過程(結果)で、ある学者が発言された?歴史の法廷に立つ覚悟?を以上つらつらと記してきた象山や坦庵のことと重ね合わせている。

 科学技術というものは近代化の名において新たな殺し合う方法を開いてきたことであるという考えに立てば、冒頭のBarack Hussein Obama Jr.氏はそのことを当たり前に述べただけのことである。また、学者氏はそのことを踏まえて、ご自身が被告として立つ覚悟をもって、なお究めようと仰言られているのであろう。

 もちろん、アルフレッド・ベルンハルド・ノーベルは未だに自らがノーベル賞という歴史の法廷に立っている。

 青臭く書くが、農耕、森林伐採、漁獲あるいは狩猟などから始まったあらゆる「業」はその覚悟の上に立っていないと、発展はない。

 近江に國友藤兵衛一貫斎という?科学技術者?がゐた。國友とは代々続いた鉄匠(刀鍛冶)集団で、種子島から発した鉄砲=武器の時代をいち早く察知した衆であり、9代目となる一貫斎は象山や坦庵より一時代前の人である(安永7〜1778から天保11〜1840年)。裏づけはないが、象・坦が知らないはずがないばかりか、接点があるはずだ、と探している最中であり、只今、「氣砲記」を眺めながら、一貫斎の覚悟を考えている。

 妙心寺とは関わりのないことかもしれないが、あながち、そうでもなさそうでもある。わたくしの中では一緒である。