妙心寺?心妙?記の參(明智風呂と八方睨みの龍)

 もとの本能寺は妙心寺仁和寺を訪ねた帰りに嵐電を使うと四条大宮駅に着く。そこから東に数百メートルほど進み、上(あが)ルと、あるいは両寺へ向かう際に京都駅からのバスが堀川通りを上リ西本願寺を過ぎ、堀川四条辺りで降りてもよい。そこら辺りを元本能寺南町という。京風に記せば「蛸薬師通油小路東入」である。ただし、京の上ル下ルおよび入リについては本当のところはよく分からない。現在の二条城の北(上ル)辺りにあったといわれる大内裏だいだいり、宮城)を礎として、そこへ近づくのが上ル、離れていくのを下ルということらしいけれども、現在では肝腎の目印が存在していないし、東へ向かうのに西入リと表わしたりする。要するに通りの名と所在先の位置(通りのどの辺りにあるか)を熟知しておく必要がある。以上、書いていても混乱するばかりである。
 ついでに申せば油小路通を下(さが)リ松原通を東へ西洞院通寄りに向かう(松原通西洞院西入天神前町)と五条天使(天神宮)がある。以前、天使突き抜けについて記した。(シマバラ界隈/05年5月5日付)その由縁となっているのが五条の天使様である。妙心寺の帰り、嵐電四条大宮で降り、その辺りまで歩いてみた。天使といって少名彦命(すくなひこなのみこと)を祀る医薬祖神道修町神農さん(少名彦神社)と同列である。テンジンがテンシン、テンシと転訛したともいわれるが、道真公とは直接関わりがない。建物に囲まれた都会のお社で、ひっそりと在る。何かの加減か?テンシが降りてきたように光を放っている。
 
[五条天使]

五条天使

 上野界隈をほっついていて、精養軒麓にある五條天神社にうかがったことがある。広くない境内であるが、上野の森といわれるように周囲一体が緑の中にあるが、なお森々とした間(ま)が存在している。両社は無縁というわけでもないらしい。



 妙心寺のくらしの中を歩いている。時間があったものだから、ガイド付き拝観料500円を支払って、しばらく待ち10数人の方々とともにガイドさんに随う。

 法堂(はっとう)はひたすら天井を観る。雲龍図JR東海より)である。

「足元に気をつけてくださいね」というガイドさんの声にも皆、天井を見上げていて、上の空(龍)である。南禅寺であったか、狩野探幽の屏風を観たことがあるがそちらの方が疲れなくて良いが、首が疲れる分良いこともある。円形の天井画に沿って自分も円を描きながらひと回りすると、龍が昇ったり、降(くだ)ったり。まるで、すぐそこで起きていることのような迫力である。八方睨みの龍ともいわれる。

⇒より大きな画像でどうぞ(臨済黄檗禅公式ネットより)

 皆がひと回りし終わったのを確かめると、お堂の隅に集めて、「申し訳ないですが、実物は只今、東京の方へ行っているんです」と、そこにあるはずの鐘楼がない空間を指さした。実はわたくしは上野で観ている。(妙心寺09年2月19日付)
 カセットテープに手をかけて鐘楼の音を聴かせて頂いた。お堂の中という環境もあるのだろうか、また、鐘自体の質の良さからなのか、心と身体に染み渡るように響いてくる。nhkの「行く年来る年」でこの音が使われていたそうである。昭和48(1973)年までと仰言っていたと記憶しているから、わたくしも「ブラウン管」の向こう側から聴いていたはずである。

[現役の鐘楼]
 
鐘楼2だい目

 法堂をあとにして、浴室に向かう。「明智風呂」といわれるが、光秀が浴したわけではない。本能寺の変を果たしたものの斃れた光秀を弔うために蜜宗師により建立されたという。当時千人あまりといわれた修行僧が月数回(四九日〜しくにち〜4と9の付く日)の開浴に殺到したのかと勝手に想像して、ガイドさんにお聞きすると、それはどうでしょうかねと首を傾げられた。

明智風呂]いわゆる蒸し風呂のことである。左で沸かして、その蒸気が右の浴室内に流れる。

明智風呂3  明智風呂 

 明智光秀妙心寺をしばしば訪れていたのであろうか。本能寺の変直後に訪ねたことは分かっているらしい。妙心寺は応仁・文明の大乱により焼失したが、利貞尼(りていに)の尽力により復興し、ほぼ現在の寺領となった。彼女の夫は斎藤利国とこの記の最初(妙心寺?心妙?記)にふれたが、利国の異母兄(弟?)である利安の孫を利三(としみつ)という。明智光秀重臣で当然「変」に関わって、処されている。光秀と利三は縁戚関係にあるという説もあるが、この妙心寺を記すうえで重要ではない。むしろ、その娘、お福の方に関心は向く。明智風呂の開浴を知らせる鐘があり、お福のちの春日局が献じたものであるという。残念ながら焼失して、現在ある鐘は他寺へ謙譲したものを譲り受けたそうである。
 局からみれば利貞尼は大祖母(曾祖母)にあたる。そういうことも鐘につながっているのだろうか。

[開浴の札]※裏側は施浴(僧以外の人に開放する、いわば外湯)

開浴(裏は施浴〜) 

 妙心寺の南総門と北総門に線をまっすぐ引くと、そこら辺りがこの寺の中筋であると想像できる。その線上に春日局によって育てられた家光が乳母を弔ったとされる麟祥院がある。南から順に下ルと妙心寺もこの辺りで三分の二ほどを歩いたことになる(龍安寺は除く)。ここから北は塔頭が少し疎らとなり、一条通(周山街道)まで点在するが、毎(ごと)その前なり横に立つようにした。時間があれば、もう少し、丁寧に廻りたい気もちである。


 本郷、東京大学の南東に春日局菩提寺「天沢山麟祥院」がある。文京区湯島四丁目、旧本郷龍岡町である。幾度か前の通り(春日通)を歩いたことはあるが、訪ねたことはない。おそらく、この先もそのつもりはないが、門前に立って春日という香を香(嗅)ぐのもよいかと想っている。

 「林」にこだわれば、麟祥院内に『哲学館』が設けられたのは明治20(1887)年、井上円了による。現在は本郷台地より移り白山台上に東洋大学となっている。また落合と中野の中間にある哲学堂も彼によるものである。

 五色幕について、次に考えたい。妙心寺の北端の方で見かけたからである。(二続)