妙心寺?心妙?記の貮(学林)

 高野山のカレッジを「古義大学林」といった。妙心寺では「般若林」という。以前、訪ねた本駒込の吉祥寺には栴檀林(せんだんりん)が置かれた。曹洞宗のカレッジである。(拙ブロメグロメグリ08年3月14日付)

『文禄元(1592)年、江戸駿河台吉祥寺境内に「学林」設立。曹洞宗が禅の実践と仏教の研究、そして漢学の振興を目的として設立当時は吉祥寺会下学寮と呼ばれる。明暦3(1657)年、吉祥寺、駒込に移転、中国の名僧・陳道栄が「旃檀林」と命名』。

 以上は駒澤大学の沿革にある。駿河台より移ったのは明暦の大火(振袖火事)によるものであるが、翌年、その吉祥寺が火元ともいわれる大火があり、全焼失した。もし、学林が前年移転していなかったと考えると、のちに栴檀(白檀)の芳しさが香ることもなかったのであろう。

 「林」で字を引くと、『ものごとの集まり/多く集まったり、盛んなようす』(明解漢和辞典新版/長澤規矩也氏編著、三省堂)とある。例を挙げると、辞林、儒林、書林など、そして学林=カレッジである。

 桜美林(おうびりん)という大学がある。その校名はアメリカ・オハイオ州オベリンカレッジ(Oberlin College)に因んでいる。同カレッジに留学した学園創設者である清水安三氏は人びとの教化と生活の向上に尽くしたオベリンの生涯に建学の趣旨を重ね合わせ、さらに、学園が染井吉野、八重桜の林に囲まれているところから、「桜美林」と名づけたそうである。(校名・校章桜美林大学のサイトより)ただし、林にカレッジの精神を込めていたことを否定することはできない。

 妙心寺をさ迷っているとぶつかった。『贈正四位象山佐久間先生墓道』だったか、全体を撮ればよいことであるが、下線部 に気をとられていた。

佐久間象山のお墓案内]※象山は三条木屋町で謀殺される(元治元〜1864年)

象山佐久間

 文化8(1811)年、前回東京大学の項で記した天文方に蕃(蛮)書和解御用(主に洋書の翻訳を行なう役所、のちの東京開成学校)が置かれるが、その年に佐久間象山(ぞうざん/しょうざん)は信濃国松代藩士(埴科郡松代町長野市松代町)の子として生まれる。門下から小林虎三郎吉田寅次郎 (松蔭)、勝海舟(のちに象山は勝の妹を正妻とする)などを輩出している。今、歴史ばやりで特にこの頃(開国期)が詳(つまび)らかなので、ここではふれない。

 神田於(お)玉が池に象山書院(五柳精舎)を開く(天保10〜1839年)。もっともお寺の『林』と異なり、こちらの門弟はさまざまでお行儀も悪かったようである。象山は主に砲術などを教えていたそうであるが、仲々の発明家でもあり、江戸硝子の発展に寄与したと知った。拙ブロ「ガラス様(大阪天満宮・のぞ記)」(09年10月14日付)でガラスの歴史について少し記した。近代のガラスは16世紀後半にオランダやポルトガルから長崎に伝わり、東漸し、江戸にも伝わった。その大きな役目を果たした一人が加賀屋久兵衛という人物である。

 東京都伝統工藝士会のサイトを引用する。

《江戸における硝子製造は、18世紀の初めに、日本橋通塩町で加賀屋(皆川)久兵衛が鏡や眼鏡等を、浅草で上総屋留三郎が簪や風鈴等を製作したのがはじまりとされている。》(江戸硝子/沿革と特徴

 実際には加賀屋が奉公人であった皆川文次郎を大坂で修行させ、江戸で造らせた。のちにノレン分けして、加賀屋久兵衛を名乗り、本格的にガラス製造を始めたようである。

 上記拙ブロにもある社団法人東部硝子工業会の「ガラスの歴史」を再度使わせていただく。

《加賀屋は、文政年間(1818〜1829)にガラス製造を計画して手代の文次郎(のち久兵衛に改名) を大阪に送り、播磨屋から独立した和泉屋嘉兵衛のもとで数年間修行させ、江戸に帰ってガラス製造を行った。皆川久兵衛天保10(1839)年に加賀屋から分家して独立、加賀屋久兵衛、通称「加賀久」と名乗り、大伝馬町に店を構えてガラス製造・販売を始めた。加賀屋久兵衛は、天保5(1834)年に金剛砂でガラス面に彫刻し、切子細工を工夫したと伝えられている。また、理化学用・医療用ガラスを日本で始めて製造したことでも知られている。》

 くどいが、東京カットグラス工業協同組合のサイトから引用する。

天保5年(1834)加賀屋久兵衛が、江戸大伝馬町で金剛砂を用いてガラスを彫刻し、切子細工の法工夫したと伝えられる。これが我が国におけるカットグラスの始まりです。》(江戸切子についてより)

 この久兵衛(きゅうべい/ひさべい)に新手の硝子製法を伝えたというのが象山といわれる。どこで二人は出会ったのであろうか。於玉が池(現在の岩本町2丁目辺り、お玉湯が目安)と大伝馬町は距離にして数百メートルもないが、象山書院でとは思えない。書院を開いた天保10(1839)年は加賀久の店開きでもある。そこ(大伝馬町)へ4年ぶりに江戸の町を歩いていた象山が生来の好奇心からか久兵衛の店を覘き、その切子の美事さにかねがね考えていた硬(かた)ガラスのことを話したのか。あるいは象山が父一学の死の翌年(天保4〜1833)、初めて江戸に出た時に会っていたのか。のちに象山は写真機や望遠鏡(遠眼鏡)を試しに作るほどであるから、ガラス(レンズ)には関心をもっていたのであろう。

「(切子は)何をもって刻んでおるのだ。」という象山の問いに、

 久兵衛は「ざくろ石(金剛砂)を使っております。」と答えたのだろうか。そのあたりの様子がよく分からない。

 切子は江戸に始まり、薩摩に伝えられ、天満(大坂)にいたったという。久兵衛は天満でガラス造りを学んだが、切子については、おそらく、オランダなどから持ち込まれたカットグラスを端倪し、その作り(切り込み)方については独りで試行錯誤していたのに違いない。それが薩摩そして自分が学んだ大坂へとつながった。仏教に数珠は欠かせないが、その一等品とされたのが水晶である。京にある玉屋の番頭高木弥助は甲州に一頭の玉があると聞きつけ向かうが、その磨きの技術は遅れており、金剛砂を用いた方法を教える。もしかしたら、その技を久兵衛は大坂で知ったのだろうか。

 ?あるいは?

 象山の生まれた松代から南に数十キロ下った嶮しい地脈を和田峠といい金剛砂(柘榴石)の産地である。象山は松代藩の故地である上田藩内で鉱脈を発見するなどもしているから、おそらく和田のざくろについても知識を得ていたであろう。

ざくろで磨けばよかろう」と久兵衛に「命じた」のかもしれない。

 もう少し、引用する。 

《(象山は)弘化4(1847)年には、その知識を生かし、耐薬品性の硬質硝子製造に着手している。医学用、理化学用ガラスの分野では、その先駆者といえよう。》(beWell創刊号アズワン?)

《弘化元(1844)年、蘭語を習い始めた象山はわずか一ヶ月でショメール百科全書をもとにガラスを作る》とある。(佐久間象山と日本の歴史独立行政法人 国立高等専門学校機構 長野工業高等専門学校

 申すまでもなく、象山は才に満ちた人である。医術にも志を向けていただろうから、ビーカー、フラスコといった戟薬に冒されにくい器を常々頭のどこかに描いていた。久兵衛の確かな技と自分にない緻密な姿勢を認めて、

久兵衛よ」と蘭書で知ったガラス技法を彼に伝え、その製造を乞うたのであろう。久兵衛もそれに応えた。

 現在も墨田区内では硝子職人が多く活躍されており、東部硝子工業会はその集まりのひとつである。以前、ある居酒屋(酒林)で理化学硝子製品を製造している方と知り合い、錦糸町駅近くでガラス市(いち)を始めたと仰言っていた。もう、お会いすることもなくなったが、今も、続けられているようだ。すみだガラス市(東部硝子工業会サイトより)
 会場は大横川親水公園長崎橋跡(アルカタワーズ北西側)付近である。ここら辺りは霊岸島の代地として長崎出身の人たちが移り住み、本所長崎町を名乗ったという説もある。

 「和魂洋才」は象山の言葉でもある。妙心寺でぶつかった「・・・象山佐久間」というのはそういうこと(洋才に姓と名を逆転させる)かとも思ったが、もちろんそういうことではないのであろう。ただ、そのような標記を初めてみたので、面食らっただけのことである。

 「東洋道徳、西洋之芸」は象山が義兄(海舟)に宛てた書簡の中の言葉だという。菅原道真が唱えたともいわれる「和魂漢才」(平田篤胤とも)がもとであり、その頃日本が「漢」から「洋(欧)」へと羅針盤の針を転換した事情を反映している。ガラスの針路もそうであり、中国から洋(オランダ、ポルトガル)へと鞴(吹子〜ふいご)の風向きを換えた。

 「A魂B才」は風向きと心意気でどうにでもなる。今をどう表わすかはそれぞれだが、わたくしはというと?野魂万才?の気もちに浸っている日々である。

[ヤーコン団子でお汁粉(おぜんざい)]

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[ヤーコンのキンピラ]※梅干添え

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 林は学問の所である。ならば?一本?多い『森』にしたらどうかだが、大学というものはそこまで成熟していない雛(ひよ)っこの集まりでもある。森羅万象には程遠い。そればかりか、林が木となり、そして枯れていくばかりである、と、これは、わたくし自身の顛末のことである。

 妙心寺という林の中に、もう少し浸かってゐたい。(続)