妙心寺?心妙?記

 college(カレッジ)とuniversity(ユニバーシティ)の違いはどこにあるのだろうか。単科大学と総合大学(教養学部+専門学部)という分け方もあるが、ユニバーシティの各学部をカレッジと称す場合もある。東京大学を例に出せば現在ある学部はもともと別物であったという。法律は司法省明法寮(のちに法学校)、工学は工部省工学寮(工学校)、内務省農事修学場が農学校となり、それぞれ東京帝国大学に吸収されていく。帝大以前の東京大学にも昌平坂学問所(昌平黌、のちに廃止)、種痘所(西洋医学所、東京医学校)、天文方(洋学所、東京開成学校)などがあって、そういう知の集まりが後に大学となった。これ以上記す必要もない。東京大学のサイト(沿革略図)あるいは司馬遼太郎さんの「街道をゆく/本郷界隈」を見て(読んで)いただければと想う。
 さて、お寺のことを大学と仰言られていたのも司馬さんであっただろうか。そこの記憶が曖昧で分からない。和歌山県高野(こうや)町は一町境内地のような山岳の宗都である。もちろん金剛峯寺(こんごうぶじ)の「一山境内地」を似非(えせ)て表現しただけのことである。同寺サイトによると現在117の塔頭寺院(たっちゅうじいん)が存在しており、それらの総称が金剛峰寺である。塔頭は高僧のお墓をいい、その周りを弟子僧たちが護るように小屋(庵)を建てたのが院(小寺)として独立したと、これは妙心寺のサイトを引用した。弟子とはいえ皆優秀な宗教家であり、それぞれが檀那衆を持ち、名刹と尊ばれていく。当然ながら?弟子の弟子?が各地から評判を聞きつけて集まり、院内で日々修業が行なわれた。いわば全寮制のカレッジのようなもので、高野山でいえばそれが百学部(科)以上あったということであろう。(より古い時代には8千坊近い庵があったそうで、明治初期にも500坊弱あったという/明治期における高野山寺院一覧高野山霊宝館サイトより)
 ただし高野山に「大学」ができたのは明治19(1886)年の古義大学林で(高野山大学沿革史・建学の理念より/上記霊宝館サイトでは明治10〜1877年という記述もある)、最古の大学はそれより1000年前(天長5〜828年)に真言宗の祖である空海弘法大師)によって啓かれた「綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)」といわれる(南区西九条池ノ内町〜東寺近くにある〜種智院跡京都市観光文化情報システムより)。現在は種智院大学として引き継がれている。
 ようやく高野山から都へ戻ってきた。妙心寺である。臨済宗妙心寺派の大学をその興地をとって花園大学という。前身を般若林といって、創設は明治元(1868)年(同大学の沿革には1872年とあるが宗門子弟以外の入学が可能な普通学林となった年をあらわしている)であるが、その源は同寺の開創(建武4〜1337年)あるいは塔頭ができ始めた永正6〜1509年頃に遡っても構わないであろう。(その意味では高野山弘仁7〜816年の開創と考えることもできる)現在は46ヶ寺だと妙心寺サイトにある。龍泉庵、東海庵を機に聖澤院(大永3〜1523年)、霊雲院(大永6〜1526年)が立ち、以上を四本庵といい、別格の塔頭寺院として扱われている。
 残念ながら、いずれも非公開のため、これ以上前には進めないが、美事な庭が垣間見える。庭といえば龍安寺妙心寺塔頭のひとつで、47ヶ目に数えられている。

[聖澤院]

聖澤院 聖澤院の中

[霊雲院]

霊雲院金印(左) 霊雲院 霊雲院金印(右)

[天授院]康暦2(1380)年の創建だそうで、もっとも古い庵(寺院)。道場となっている。

聖澤院横の院

 大学のキャンパスというのは今は自由に歩くことができるのであろうか。

妙心寺境内は24時間開放されている、いわば暮らしの道路が通っていますので、ご自由に散策して下さい。』(拝観・境内案内妙心寺サイトより)

 そのとおりで、もちろん要所要所で拝観料は必要であるが、そのほかは「くらしの中」である。自転車の買物籠に夕餉の食材を載せていたり、後ろに幼稚(保育)園帰りのお子さんを乗せていたり、のどかなものである。そのあたりで迷った。立ち止まって、南門で購入した地図を睨んでいると、

「どうしましたか」とペダルをゆったりと漕ぐ法衣姿の坊様が停まって、

「いえ、あの、この通りを行けば東海庵ですよねぇ〜」

「ここですよ」と、それは眼の前にあった。

[左が東海庵]

妙心寺の通り

 東海庵の開祖は悟渓宗頓(ごけいそうとん)禅師、庵の名が示すように尾張国の生まれで丹羽郡南山名村(今の丹羽郡扶桑町)。どういうわけか四本庵のうち龍泉庵は伊勢国の景川宗隆(けいせんそうりゅう)、聖澤院は美濃国の東陽英朝(とうようえいちょう)禅師(ただし勧請〜かんじょうであり、実際の創建は天蔭徳樹〜てんいんとくじゅ)と今でいう東海地方に関わりが深いのは守護大名として力のあった斯波氏や土岐氏などの存在があったからだろうか。

 応仁・文明の大乱(応仁1〜文明9年/1467〜1477年)は京を揺るがせ、妙心寺も焼失した。

 『永正6(1509)年、利貞尼(りていに)という人が、仁和寺領の土地を買い求め、妙心寺に寄進され、妙心寺の境内地が今日のように広くなりました。やがて七堂伽藍(しちどうがらん)が建てられ、塔頭(山内の小院)が創建されていきます。』(妙心寺の歴史より)

 利貞尼というのは美濃土岐氏の執権(守護代)である斎藤氏、応仁の乱でも西軍として活躍した妙椿(みょうちん)の甥で養子となった利国の正室、妙椿とも親(ちか)しかった一条関白兼良の娘細姫である(異説あり)。

 しばらく妙心寺という「林」(大学)を歩いてみる。