王紋と越後菓子
越後酒の続きである。
市島酒造の銘柄は諏方(訪)盛だったと記した。造り酒屋の馥郁を引きづりながら向かいにある「おすわさま」に。前回にも記したが新発田は新たに発(ひら)いた田であり、もともとは周辺を泥土層が囲んでいた。しかも市内を流れる加治川は荒れ川で氾濫を起こすことも度々あったという。独立行政法人防災科学技術研究所のサイトに「加冶川周辺低地の地形と1966年氾濫域」という項があり、干拓した潟のほとんどが浸水している。これをみると、新発田が州端(すばた)であることが明白となる。66(昭和41)年というのを気象庁データによる「新潟」で検めると7月に400ミリ以上の雨が降っており、さらに17日に100ミリを超えるとある。この日が上記の浸水時と推測できる。あとに下越水害といわれた。ただし、同庁の「観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)」という項をみても66・7・17は見当たらない。もっとも多く降ったのは98年8月4日(新潟豪雨ともいわれる、265ミリ)、次いで165ミリとあり、67年8月28日、つまり二年続けて此の地は災難を被った。翌年の被害はより甚大で、羽越水害といわれる。
新発田に封じた溝口秀勝はもともと尾張中島の出で、木曽川の猛威に曝される中での治水・干拓事業に長けていたのだろうか、ここ新発田でも、また二本松(福島県)などにおいてもその経験を活かしている。お陰でもって、新発田は意外とうねくねしている新潟に較べ”極楽”のような坦とした土地に恵まれている。
諏訪神社の御由緒の項に越後開拓のため信州から民が移ったとある。もともと住むには至極とはいえなかった越後に開拓人(屯田兵)として入った信の衆が拠りどころとして「おすわさま」を分〓(じ)いただく。大化4(648)年、つまり大化の改新(大化1年〜)が始まり、由緒にもある渟足(ぬたり)柵、磐舟(いわふね)柵の中間あたりに元の諏訪社は建立された。現在の北蒲原郡聖籠(せいろう)町諏訪山である。
以上は諏訪神社(おすわさま)の由緒をもとにしている。
[諏訪神社境内]
元禄1(1688)年、現在地に遷る。
[御柱]
諏訪大社より。
境内は3,000坪を超えるとあるからそれなりに広く、新潟への電車待ちには居酒屋(駅前にてすでに開いていた)に入るより真っ当かと想い、しばらく佇んだ。しかし、お酒が目に飛びこんでくる。
[新発田‘発’のお酒]※境内にて
「諏方(訪)盛」、「菊水」(菊水酒造)そして「初花」(金升酒造)の三酒が新発田にて醸(つく)られている。ほかに旧紫雲寺町には「ふじの井」(ふじの井酒造)がある。
さて、諏方盛は只今の銘を「王紋」という。この後うかがった新潟駅近くの居酒屋ではカウンターに座ったが、眼の前に何本も一升瓶が置かれていて、もっともわたくし寄りにあったのがコレで、これも何かの縁かと一瞬迷ったが、眺めるだけにした。
市島家の四代目は長松さんといって、欧州遊学を果たし、帰国後、彼の地で受けた心の響きを酒造りに仕込ませ、銘柄を王紋と決めた。一般的な日本酒の銘刻字は明朝というのか、「和」調である。見づらいが、新潟県のお酒一覧(全てかどうかは分からないが)をさっと眺めると、やはりそのようである。(前列左より4番目のスキー正宗は微妙であるが、和調か?スキーの板のようにも。高田のお酒である)
比して王紋(新潟淡麗倶楽部/新潟県酒造組合)は一見、骸(むくろ)骨のようにもというのはたいへん失礼であるが、まことに王家の紋章である。四つの星は何を意味するのであろうか。長松さんを含む四代(秀松、謙、友松さん)を表しているのだろうか。であれば、あと三つ星を輝かせてもよいだろう。工場でお会いした現社長がサイトの中で「(新発田の)米と水と気候と技術(杜氏)」とご挨拶されている。もしかしたら、このことかもしれない。
王紋のお話は「地酒の旅 蔵元紀行」(地酒蔵元会)に新発田の歴史とともに紹介されている。
うっかり、お礼も言わずに去ってしまった。どうも、ありがとうございます。いつか、向き合う時が来ましたら、もう一度うかがいたいと思います。
所用の近くにブルボンの工場があった。戻り、地図をみると、ほかに三幸製菓、栗山製菓の工場も市内にあって、日ごろわたくしがお世話になっている三菓が勢ぞろいである。
[↓これは三幸製菓]
下校途の学生さんがひっきりなし乗り降りする3両列車で新潟市に戻る。その夕べに居酒屋さんにうかがったことはすでに記した。終わりの近い新潟名産エダマメとこれから始まるギンナン焼きをいただいた。
明日(10月1日)はある場所に出かけるつもりである。