越後酒

 数年間まともに日本酒と向き合っていない。拙ブロふなべた(05年1月28日付)で新潟にふれていた。そして、その際に日本酒と向き合ったのが最後かもしれない。もちろん、それ以外にも口にしたことはあるが、「まとも」ではない。
 新潟駅前にとった宿の部屋から街を望むと薄暮の中で一軒のお店が気になった。取り急ぎうかがった。5時を過ぎたかどうかであったが、さいわい開いていらした。他にお客さんはいない、10名ほどのカウンターと卓席や小あがりがあって、1時間後には20数名ほどの定員がほぼ埋まっていた。周りの方は最初はビールでもそのうち日本酒に変わっているのだが、わたくしはやはり向き合うことができないままで終わった。

 ところが、どういうわけか「お酒」と二日連続して、出逢った。

 所用のあと新発田駅近くまで送っていただいて、降りた。足軽長屋といって新発田藩のアシガルたちが暮らした住居跡というのが清水園(藩主溝口家の下屋敷)の向かいにある。
 新発田(しばた)というのは新たに発(お)こした耕地(田)と覚えたはずであるが、そういうことだけではないらしい。(財)新発田市まちづくり振興公社のサイトによると、「この地方が海岸州の近くだったことから「州端(すばた)」が「しばた」になったという説」があるという。(新発田ってどんなところより)現在の新発田駅から海岸線までは直線距離で10キロほどで近いとも云いがたい。ただし、05年5月1日に加治川村とともに新発田市とあわさった旧・紫雲寺町の多くは「潟」であったという。塩津(紫雲寺)潟は享保年間(KH13/1728年着手〜KH20/1735年完了のようである)に干され、農地・村として拓かれる。旧新発田市との境を流れる加治川はより西側(新潟市寄り)の阿賀野川に比していかにもひ弱な河脈で、後者は奥会津に深く力強く入り込んで、源流は尾瀬にまで及ぶというのに、前者は新発田市内で果てている。その割りに力はあって度々洪水を招いたそうである。沼め沼め(ヌメヌメ)とした潟に意地っ張りな河が直前に迫った様を指して、新発田=「洲」端という説もあながち捨てることができない。(ちなみに阿賀野川は総延長569キロ、加治川は48キロ;新潟県の河川一覧新潟県サイトより)もっとも新発田氏という揚北(あがきた)衆が存在していて、鎌倉時代には阿賀野川の部一帯を支配していた。この頃からすでにシ(ス)バタという通り名であったのだろう。その新発田氏は上杉景勝に落とされ、上杉の会津移封ののち、越後には越前北条の堀秀治が、新発田には溝口秀勝若狭高浜⇒加賀大聖寺)が入る。(慶長3年〜1598年)

[清水園と足軽長屋]

 狭い通りの側を流れているのは新発田川。秀勝が加治川から水を導き、開鑿した。

足軽長屋と清水公園画像0042  足軽長屋画像0041

[実りの秋]

 収穫の時節である。所用先までの道のり、その感覚を味わった。標題は越後酒であるが、本来は越後米である。

[左:稲穂がぬっ垂(た)り、右:もみ殻が畦に。]

稲穂新発田画像0030  籾2画像0035

[左:中途半端な刈り方が気になる、中:畦の風景、右:スミレ?]

 まだ、稔りのほどが気に入らなかったのか、それとも、どこかへ遊びにでも行ってしまったのか?

稲穂新発田中途半端な刈り画像0031  ノウドウ画像0038  すみれ画像0037

 秀勝は越前、加賀以来の商人を引きつれて新発田入りした。

 《当社の総本家「市島家」は、約400年前の慶長年間(1598年)に、加賀大聖寺より越後新発田藩に移封された溝口侯に随伴して当地に移住しました。市島家は薬種問屋を始め、酒造、金融、回船業などで商業資本を蓄積する一方、沼澤の多い荒蕪の土地を意欲的に開拓し、最盛時には2800町歩の田畑山林を所有する全国屈指の大地主となりました。
 当社は初代市島秀松が寛政年間(1790年代)に宗家より分家し、現在の地に創業しました。初代秀松と2代謙は、少より学を好み江戸の学者梁川星厳に師事。江戸文人との交流を通 して言志社を起こし、後進を指導しながら藩の文化に貢献しました。現在は7代目が伝統ある蔵の歴史を受け継いでいます。また、酒蔵を開放しており、毎年各地方から多数の人々が見学に訪れています。》

 足軽長屋を観終え、落ち着いた町屋の佇まいを過ぎた先に市島(いちしま)酒造株式会社があった。上記の文章は同社のサイト(沿革)より引用している。勝手に中へと進み、工場を覘いていたら、どうぞ、と、今係りの者を呼んできますからと、ご主人なのであろうか、背広を着こなした「しゃき」とした若い方がそう仰言られた。(サイトで確認するとやはりそのようであった)係りの方に詳しい案内を受けてから、工場内にある展示施設を観させていただいた、その中にも上記文を含んだ詳しい歴史が記されていて、そのとき初めて、新発田という小藩(当時6万石)のことを少し知ることができた。

[ご城下の静けさ]

家並新発田画像0043

[市島の松]

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「酒林=杉の玉が青いので、新酒ができたようである]

 利き酒を勧められたが、向き合わなかった(呑まなかった)。

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[左:諏方(訪)盛がもともとの銘柄のようである、右:展示室に納まっている古伊万里大皿]

王紋4画像0046  王紋古伊万里画像0047

 諏方のことも含め、以降は次回記す。これから、芋焼酎と向き合おうと思うのでΩ

 [見えないと思うがサギが何羽も舞っている]

 本物のサギは地方でも見ることが少なくなったが、都会ではうようよ、ぞろぞろしている。ああ、コッチは地方でも多いらしいから、気をつけましょう。

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