大坂橋

 天満天神さんをあとにして、いよいよ川筋に向かう。あとで知ったのだが、天神橋筋商店街というのは日本一長い商店街ともいわれ、帰りはJR大阪環状線天満駅」で降り、ふと見るとそこも天神橋商店街(四番街)であったことを憶えているので、やはり、長い。検めると2キロはゆうにある。心斎橋が数百メートル(長堀通〜戎橋)、また東京銀座通り(1〜8丁目)はその倍程度であるから、やはり長〜い。
 南に下ると、大川がちょうど堂島川土佐堀川とに分岐するあたりに天神橋がある。社団法人土木学会関西支部の「土木のギャラリー/日本の橋」を観ると文禄3(1594)年に架けられたとある(ただし、今の架け位置とは異なるようだ)。この年は元の伏見城へ秀吉が移っている(4年後、新たな伏見城で歿)。もとは単に新橋と呼ばれていたらしく、天満天神さんが管理することからテンジン橋となったとある。架橋の推定(文禄3)年は秀吉の大坂城着工〜天正11(1583)年から12年、お城本体からご城下の整備も進んでいた頃である。天満橋難波橋とともに重要な橋として架けられたのであろう。なお、天満、難波の2つについては架橋年がはっきりしない。天満については天神と同じとする記事を見つけた(大阪日日新聞のサイトより)が、おそらく、難波も含めて同時期と考えても良いだろうか。
 水都大坂(10月12日で終了、この文は9月18日のできごと)で賑わう八軒家浜(はちけんやはま)の河岸を天満橋まで歩き、それを渡って、大川右岸に回って、川沿いをさらに進むと、川崎橋がある、歩行者と自転車のみの橋である。上記「日本の橋」に江戸時代には川崎橋はなく、そのかわりに渡しがあったという。明治10年(1877)年に架けられ、通行料を徴ったところから「ゼニトリ橋」と呼ばれたともある。江戸や大坂では幕府直轄の橋を「公儀橋」、それ以外を「町橋」と区分していて、先の天神、天満、難波橋は前者にあたる。川崎橋は個人が架けたものだから、町橋である。明治18(1885)年に起きた淀川の洪水(淀川河川事務所サイトより)により多くの橋が流され、その後再建されているが、川崎橋は例外であった(昭和53〜1978年に再架、日本の橋より)。よほど評判が悪かったのであろう、もっとも今では公儀でもゼニを徴っている。
 天保8(1837)年、大塩平八郎の乱が起きた。この時幕府は天神、天満、難波橋を壊したという(日本の橋/天神橋より)。以前も書いたが橋というのは攻撃にも防御にもなる武器としての力がある。攻めるためには敵陣に入って橋を架ける勇気も必要である。また、守るためには壊す度胸も要る。
 偶然であるが末広という町名を見つけた際(拙ブロ;大阪天満宮09年10月13日付)、その先に成正寺があった。天神橋筋商店街に向かう時である。そこに平八郎の墓所があるが、お墓に無暗に行くものではない。ふと斜向かいにある堀川戎神社に伺ったことを今思い出した。

 川崎橋のほぼ中央付近から一枚撮ってみた。ここらあたり(写真中央)が中央区と北区および都島区の界に当たる。

[川崎橋より天満橋方向]

大川三区差交
中央区  →北区
    ↓都島区

 背後は都島(備前島;宇喜多秀家の屋敷があった)、地名は網島、心中天網島の終の舞台である。

 さあ目的地は近い。東海道は江戸日本橋から始まり、今日の三条大橋で終わる。しかし、街道はその先も続く。伏見(山城)、河内国を経て、京橋を渡ると、ご城内である。江戸日本橋を発った旅人は次の京橋に立って、さあ京へとでも思ったのであろうか。大坂京橋から京へ向かう時、お城を振り返って無事に戻ることを祈ったのだろうか。旅の始まりは橋から彼岸へと、いつも緊張と期待に包まれるものである。(もっとも旅でない場合もあるが)

[京橋よりOBPを]※流れるのは寝屋川

寝屋川画像0045
    ↑OBP(大阪ビジネスパーク
←網島   →大坂城
    ↓天満橋

[京橋〜頭上あたりが某(あ)る橋]

京橋景画像0049
 
 拙ブロけふ橋(06年4月28日付)で記した。おおげさに申せば3年と半年の想いが叶った。

 大坂橋である。

 その際は電子地図を眺めるだけで、そのまま大阪橋と記したが、やはり大坂橋がふさわしい。

[大坂橋]

大阪橋画像0043

[大坂橋ほぼ全長景]

大阪橋景画像0044

 ただし、素っ気がない。ただの歩道橋(自転車も可)である。

 しかし、物語がある。「日本の橋」を引用する。

《大正14年3月、東横堀川の浚渫中に、末吉橋と九之助橋の間の川底から「大坂橋 天正拾三年」(1585)の銘が刻された擬宝珠(高さ60センチ×外径35センチ、重さ15キロ)が発見された。しかし、この「大坂橋」は過去のいずれの文献にも見あたらず、橋の所在・規模については、後にさまざまの議論が展開することになる。
 この立派な擬宝珠は、昭和6年に再建された大阪城天守閣に保存され、市民に公開されていた。しかし、終戦後の昭和23年7月に、天守閣がアメリカ軍から大阪市に返還された時には、この擬宝珠は既になくなっており、戦争の混乱時に行方不明になったようである。現在は、当時の写真と拓本が残されているのみで、橋の所在と同様に幻の擬宝珠となってしまった。
 幻の「大坂橋」の名前は、昭和48年大阪城公園と毛馬桜宮公園を結ぶ自転車・歩行者専用橋として390年ぶりに復活された。(以下、略)》※なお、「日本の橋」には記事については松村博氏より提供とあることを付け加えておく。

 擬宝珠(ぎぼうし、ぎぼし)の刻が正しいとすれば天神橋、天満橋よりも古く、大坂城築城の3年目にあたる、もし現在の位置に架けられたとしたら、お城内と外を結ぶ最初の橋であったのかもしれない。上記文中にある末吉橋および九之助橋とは東横堀川阪神高速1号線の下)に架かる。ちょうど「オモチャのマッチャマチ(松屋町)」の南北の両端に位置している。大坂橋から大川を下り、土佐堀川からの枝川(運河)である東横堀川へと15キロの擬宝珠が流された可能性もある。先の淀川洪水か、ただ、これはもう近代のことだから所在程度は分っているだろう。安政南海地震安政1〜1854年)か、この時の揺れで頭(ぎぼし)が取れてとも考えることができる。この年(途中から嘉永から安政改元された)は嘉永地震もあり、留め具合が緩んでいたのかもしれない、で、ごろりん。

 確かめようがないらしい。だいいち、どの時点(時代)に戻ってよいものか、分らない。

[大坂橋から大坂城を望む]

大阪橋と大阪城画像0042

 長々と書いた。以上で9月半ばの大阪行は終わった。大坂橋より京阪天満橋駅に向かい、最近開通したという中之島線にでもと思ったが、どうせなら京へと、本線に乗った。ただ、車中で気が変わり、京橋で環状線に乗り換えて天満駅で降りたことはすでに記した。この夜は旧知と呑む約束もしていた。