tenn_jin(大阪天満宮・のぞ記〜その3)

 うっかりしていたが、天神祭は6月のまだ梅雨の明けない頃から始まっていた。どうも、あてにならない気象庁のような情報で申し訳ないΩ
 天神祭はやはり西のご祭礼という印象がある。江戸のほうは少し気が逸(はや)くて5月にはもう祭っている。それにはもちろん祀られている方の事情にも縁るのであろうが、天神の頃には(江戸は)祭よりも花火に夢中となる気質がある。(天神祭にも花火はあるが)
 「講」というのはさまざまあって、説明が難しいが、もともとは講義〜仏の精神を弟子に伝える専門(学問)的な集まりであったらしい。それが仏や神を仰ぐ衆の集まりとなって、お伊勢講、富士講などを生み、詣でるための資金を積み立てたり、また、無尽講といわれる持ち回りの資金捻出組織(SNS)を併せもつようになった。ネズミ講マルチ商法はこれに近いが、資金は無尽でなく、構成員が無尽であるところに問題がある。
 仮に一人の者が乏しい財布の中からひと月5千円を1年間積み立てると、(利息を除き)年6万円になる。しかし、来月急な出費の予定があり6万円用立てる必要があった場合、12名で構成される無尽に入り、5千円を用意すると、12名分の6万円を手にする可能性がある。もともとはくじ引きにより手にする人が決められるのだが、中には話し合いで、どうしてもという人が優先される講もある。運良く6万円をGETしたゴンベイさんは明くる月より5千円+利子分を講に差し出し続け、以降、(次の新しい回まで、12名であれば1年が1回となる)受け取る権利はないが、当面の金策に成功したことになる。くじでと書いたが、競る講もあり、これは怖いらしい。月の掛け金10万円×12名分を利子の吊り上げで落とし、120万円を手にして、そのまま、ドロン。無尽の仕組みが一瞬にして崩れる瞬間である。
 さて、大阪天満宮にも多くの講がある。こちらは講社という。もちろん、上記のドロン講とは違う。
 『山車・だんじり悉皆調査』という作業のほどを考えると恐ろしく「素的」なサイトがあり、そこに天満宮の講社について紹介があり、道修町御湯講もあった(同サイトの大阪天満宮の)。
 御湯(お湯かけ)というのは無病息災を祈願して煮立ったお湯を笹やら榊(さかき)でもって、周りの祈願者に降り掛ける儀式で、わたくしの遠い記憶の中にもそのような経験がある。ただ、いつ、どこでかは憶えていない。わざわざ節分会(で行なわれることが多い)に出かけたということもないし、単なる記憶違いの可能性が高いが、わたくしが神社に詣でたという唯一の経験は「七五三」なので、その時なのかもしれない。ま、詣でたというのか無理やり連れて行かれたというのがより適切な表現である。もとはより宗教的な意味合いが強かったようであるが、次第に柔らかくなり、八坂さんのオケラ詣(まい)りのように持ち帰ると縁起が良いという風習へと変化していった。
 道修町の講社ご一行は毎年1月8日に御湯講の神事を執り行ない、献湯したと、上記サイトにある。その標として、石碑を残したのであろう。道修町といえば神農(シンノウ)さんと少彦名(スクナヒコナ)さんを祀っているが、11月(神農祭のため)を除く23日(本日)に献湯祭があると初めて知った。(くすりの道修町資料館より)降り掛けに用いているのは御幣(ごへい)である。天満天神さんと道修町は大川(途中より堂島川土佐堀川に岐れる)からほぼ同距離(数百メートル)にある。川を基点と考えると天満宮さんは丑、道修町さんは未の方位に当たる。道真と牛は縁が深いからなるほどと思い、では薬(道修町)と羊はと思うも特段ないが、神農さんには張子の虎が付き物である。丑のお隣は寅、そのようなご縁もあって、年明け早々に御湯を献(さ)しあげに皆でうかがっているのであろうか、と、勝手に解釈している。
 享保18(1733)年、薬種中買仲間の親睦団体「伊勢講」結成と、資料館サイトにあった(神社の沿革)。300年近く前の「お伊勢講」が現在の講社の始まりと考えてよいものなのだろうか。天神祭については社横にある繁盛亭の関連サイト?(天満天神繁盛亭まんねん)に詳しく紹介されている。(天神祭の様子享保といえば、薬種仲間の伊勢講結成前年に大飢饉が発生している。そういう想い(願い)もあって、講が生まれるのであるのか、このことは、もう少し考えたい。
 
 道真の命日は2月25日で、左遷が決まったのが1月25日、そして生まれたのが6月25日ということである。そして、天神祭は7月25日、本宮(ほんみや)を迎える。まだ、目にしたことはないが、大川を往き交う船渡御(ふなとぎょ)は、いつか観たいものである。

 次は、ようやくというか、大阪の某(あ)る橋のことについて、記す。

 でわ、わたくし以外誰もいない無人講を、これから執り行ないたい。