梅田・朝ぼら記〜お旅社

 御旅社(おたびしゃ)が公式名であり、「俗名」は御旅所(おたびしょ)ということである。綱敷天神社の系統にある。”神様の別荘”(休憩所)という意味合いがあるそうだ。

[お旅社〜街に埋もれてしまいそう]

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[お牛様]

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[歯神社にあった三社の案内図]※中央がはがみさん、右が御本社、左がおたびしょ

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 綱敷天さんのサイトに氏地の紹介があるが、御旅社が所在する茶屋町もそのような歴史をもっている。名が示すとおり「お茶屋」(≒料亭)さんがあった場所で「鶴」「萩」「車」という三軒之茶屋があり、明治半ばまでたいそう繁盛していた。凌雲閣というのは1888(明治21)年に棟上げされた「キタの九階」とも呼ばれた展望施設とでもいえばよいのか、その様は今となっては碑で名残を惜しむしかない。「はがみさん」から「おたびしょ」さんへ向かうすがらに道の傍(かたわら)でみつけた。現住所で示せば茶屋町2、ヤンマー本社の裏手になる。

[凌雲閣跡]

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[二度目の登場]※観覧車を望む朝(HEP FIVE)

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 凌雲閣の近く(向かいか?)には小林佐兵衛による小林遊園地があった。ジェットコースターや観覧車があったわけではないが、お庭が素的だったらしい(綱敷天神社のサイトより)。明石屋万吉こと佐兵衛のことは、司馬遼太郎氏の「俄」(にわか)を読んでみたいと想う。閣も園もすでにないが、その向こうには小林十三(いちぞう)翁より創(はじ)まる阪急梅田開発が峙(そばだ)っている。
 浅草十二階をそう(凌雲閣)とも呼ぶらしい。そんなことから、新宿の十二社(じゅうにそう)を想い出し、そして、翌日の呑み屋での旧知との会話では十三(じゅうそう)のことが。万吉(佐兵衛)は十三の出だとも謂われる。拙いブログを書きながら十二、十三と数が飛び交い、また、別の妄らなことを考えている。

[綱敷天神社 御旅社 社報]

御旅社社報 

 御旅社で頂いた「社報」である。そこに喜多埜という文字が確認できる。このキタノ(北野)が「キタ」の語源だとも。御本社には創建は不明らしいが、喜多埜稲荷神社(宇賀御魂神)が祀られている。(歯神社も、もともとは同祀である)道真はよほどの梅好きであったのだろう、大宰府へと流される途、現御旅社の紅梅が美事だと船を泊めて、艫(とも)を円(まる)めてき、団子を食みながら観賞したという(社報より)。京より連れ従った渡会(わたらい)春彦(白太夫)の孫ら一族に白江姓を与え、そのまま留めおかせた。一族は道真の帰りを祈念し、梅の下に祠を拵え、待ち続けた。これを梅塚天満宮といい、只今の梅田の由来とされている。朝廷により天神様が祀られるようになったのち、神野太神宮(現御本社)と合祀したおりに一切を綱敷と名乗った。
 以上、社報の御由緒による。

 神社の八つにひとつは天神様(天満宮)ということは拙ブロ(湯島神社、浮き足記/09年9月21日付)で書いた。これはまったく偶然であるが、翌日(18日)も当たった。