AKIBAからYUSHIMAへ
所用で秋葉原に出かけた。カレー屋さんやスタンディングスシバー(立ったままスシを食べる場ほどの意味であろうか)の前で立って並んでいる方など通りに出っ張っていて、お午であるかと気づいた。所用以外に「用」はないので、さっさとあとにする。お目当てがあったというよりも、出かけるのだから、ツイデにという想いで予め電子地図を眺めていたら「妻恋神社」をみつけた。以下、特に楽しい話ではない。
中央通りを北にメトロ銀座線「末広町」の交叉点を西に取ると、蔵前橋通りになる。萌えの空気からもメイドさんからも離れ、すっかり淋しい限りである。表通りを一本這入ると急な坂が続く。その登りきった付近に「妻恋(つまこい)神社」はある。坂の名は妻恋坂と謂う。途中、横をみると、表の通りに向かってラージヒル並みの斜度でもって、両脇にくらしが集まっている。ここに住んでいらっしゃる方は決して上にはいらっしゃらないであろうなぁと勝手に思いながら、そこらよりずっと緩い坂の頂点付近に立つ。
[蔵前橋通りを望む、が、急すぎて、撮ることが叶わない]
[妻恋神社・正面]
その昔、日本武尊の東征のとき、三浦半島から房総への途中で大暴風雨にあい、妃の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海に身を投じて海神の怒りを鎮めたという。途中湯島の地に滞在したので、郷民が尊の姫を慕う心をくんで、尊と姫(媛)を祀ったのがはじまりと伝えられる。 江戸時代には、妻恋稲荷の名で有名となり王子稲荷と並んで参詣者を集めた。
以上、文京区のサイトから引用した。
媛(妻)の献身のお陰で日本武尊は今でいう東京湾を無事渡り、現在の木更津あるいは君津に着く。「きさらづ」の名は良人が妻を偲んだことからだと謂われている。
以下は木更津市のサイトからである。
妃の弟橘媛が自ら海中に身を投じ海神を慰めたので、怒濤はたちまちにしておさまりました。上陸した尊は太田山から海を見下ろし媛をしのび、何日もこの地を去らなかったことから、君不去(きみさらず)と呼ぶようになったといわれています。
その際か、潮に流されて走水(横須賀市〜媛が身を投じた場所と謂われる)から媛の衣(着布)が漂流した岸(津)をふるつ(布流津〜富津)と謂う。(富津市サイトより)
君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき
良人であるヤマトタケルの気もちを知ってか知らずか、媛の想いが通じているのかいないのか、神社の隣と向かいにはその筋のホテルがある。(向かい横にさらに建築中またはリニューアル中でもある)
湯島というのは三業地(置屋、料理屋、待合)でもあった。あとで電子地図を確認すると、不忍池(上野)まで1キロもない、そういう立地にあった。その眼で思い直すと、蕎麦屋さんや天麩羅屋さんが多くあった気もする。ただし、一切、寄(酔)ってはいないし、ニ業(おソバとテンプラ)が三業のうちにあるということではない。
[三業地の残り香か]
[実盛坂(さねもりざか)昌平橋通り→中央通りへと抜けていくのだろうか]※怖いから、下ってはいない。
隣は緬羊会館とあったが、今回はパス。
この先、湯島天神に。表鳥居の脇に「湯島神社」とあるのが新鮮に映えた。
実は、ここへは初めてで、あまり広くない境内を一時間ほど廻った。そのことについては近々。