シマバラ界隈

 一様に京都という町は外モノには居心地が良いとはいえない雰囲気が漂っている。そのことは「大手筋界隈(伏見桃山)(04/18)」でも書いた。もちろん、個々の事象、人柄をとらえれば、そうとは限らないのは当然のこととしても、全体を大まかに断じてしまうと、冒頭の言葉になってしまう。もっとも、それだけ、わたくしが、これまで京都という町に積極的に関わってきたわけでもなく、いつまで経ってもヨソモノ面して、立っていたことも影響しているとも思うが。(それはどこへ行っても同じなのだが)
 豊臣秀吉という人は不思議なオヒトで、出自さえ、あいまいである。名古屋の中村あたりの貧農の出というのが定説ではあるが、そういうコゾウが、どうして、矢作橋を知りえたのか、それすら、筋の通った説明がないような気もする。今ならば、名鉄電車で新名古屋から東岡崎まで特急電車で30分程度であるが、歩けば、そこそこの距離である。また、放浪するにしても、わたくしなら、何もない三河よりも美濃をめざしてみようかと思うのだけど。むしろ、何もない場所に鼻が利くのが才なのかもしれないが。
 それはそれとして、秀吉は京にはご執心で、良くも悪くも随所にモノ・コトを残している。醍醐寺というのは、今では間近に住宅開発もあり、そろそろ、その影響をも負いそうな気配があり、案じているが、訪ねてみると、思った以上の広さに辟易とした。醍醐寺そのものは秀吉によるものではないが、彼がド派手な花見の宴を催したことが醍醐寺=秀吉という印象を、より強くしている。五重大塔は見事で、しかも、周りには樹木があるだけの一区画をまるまる占めており、他に何もなく、しばらく、首を上にしたまま、その容姿に惚れ込んでいられる。もう、これ以上、上(醍醐)には行く気力がなかった、そもそも、冬のまだ凍結した山道(参道)を昇るほど、わたくしには体力も、信仰心もなかったということだけのことではあるが、やはり、一度は上醍醐に行きたいという気持ちだけはある。
 ただし、今回は醍醐寺が本筋ではない。いずれ、また、書き留めたいとは思うけれど。
 もう今では残堰程度しか認められないのだが、御土居(言い方は他に、御土居堀、土居堀)という、それまでは「惣構」(そうがまえ)といわれた塁を築いたのもHIDEである。(天正19=1591年)江戸城で言えば外堀だの内堀などといわれているのと同じで、外敵から衛るうえでの城砦(城塞)にあたり、確定はされていないものの、今の図版に照らし合わせると、北は鷹峯、南は九条、賀茂(鴨)川が東極で、本日の本筋に近い紙屋川が西極だったらしい。いわゆる洛内と洛外との関わりをサイトなどで確かめてみたが、おおむね、二つは、ほぼ一致していると解釈できる。したがって、堀の内が洛内、それ以外は洛外といっても差し支えはないと思われる。JR西日本嵯峨野線(ま、山陰本線の別称なんだが)丹波口という駅がある。同駅を東に歩くと島原遊郭跡である。遊郭址といっても痕跡は皆無に近い。江戸千束のような風俗のなりわいがあるわけでもなく、名古屋・中村遊郭跡のような雑然とした街があるわけでもない。ただ、門と碑がわずかに往時を想い起こさせるように残っているだけのことである。
[島原大門]
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 1641(寛永18)年開業(開設)とあるから、葭原(元吉原、1618・元和4年)に較べ、ずいぶんあとなんだなぁと、調べてみると、島原は京都の遊郭地でいうと三代目らしい。初代は現在の京都御所や二条城に近い地域で、南北の寺町通(東端)、柳馬場通(西端)と東西の二条通(南端)及び夷川通(北端)に囲まれた4ヘクタール余りであり、京都駅ビルの用地(敷地)とほぼ等しい範囲である。秀吉より許可を得たのが1589(天正17)年、HIDEが天下統一を果たす前年のことである。
 秀吉没後のことであるが、二条城造作のため、また、御所に近いという理由もあり、二代目は六条三筋町あたりに移る。(1602・慶長7年、江戸幕府開闢の前年)ここは、今でいうと東本願寺真上になる。お城や御所の邪魔になるからと移転させた先がお寺の上ということ自体、わたくしなど不思議に思ったのだが、徳川家康の寄進により、今の地に東本願寺が移ったのも同年だったということを知って、京から江戸へ勢いが遷るハザカイでの混乱とでも解釈できるのだろうか。「島原」というのは正式な地名ではなく、二代目遊郭の移転(替地)が決定(1640・寛永17年)、翌年、朱雀野(島原)遊郭グランドオープンとなる運びであるが、急な移転騒ぎで戸惑うさまが37年に遠く肥前で勃発した島原の乱に似ていたとか、遊郭に向かう♂どもが島原攻略・・・と囃したてながらいったことからだという説があるが、どちらにしても、本来の地名とはかかわりがない。地理的には現在の西新屋敷一帯をさし、西本願寺と先の丹波口との中間にあたる。今でも、島原の名をとどめる施設もあり、当時の置屋「輪違(わちがい)屋」や揚屋(宴席、料亭)「角(すみ)屋」などが現役あるいは記念館として機能している。たまたま、nhk新撰組を放映していたことから、大勢の観光客が歩いていたが、夜ともなると、ひっそりとした商店街があるだけで、呑み屋さんも数えるほどしかなく、先に入っていた地元客が帰ると、店主ご夫婦とわたくしだけ、敷居の高い店ではないが、フリ客が来るような場所でもないことから、そもそも何故、ここに来たのかを説明しながら、手づくりの肴でもって、伏見は洛外であるけれど、洛内の南西端に追いやられたシマバラもまた、居心地の良い場所であることは、一夜限りでも感じることができた。
 ところで、森鴎外の『高瀬舟』にも紙屋川の文字が登場する。
《わたくしは弟と一しよに、西陣の織場に這入りまして、空引(そらびき)と云ふことをいたすことになりました。そのうち弟が病氣で働けなくなつたのでございます。其頃わたくし共は北山の掘立小屋同樣の所に寢起をいたして、紙屋川の橋を渡つて織場へ通つてをりましたが、わたくしが暮れてから、食物などを買つて歸ると、弟は待ち受けてゐて、わたくしを一人で稼がせては濟まない/\と申してをりました。》
 弟殺しの罪を背負って高瀬舟で送られる喜助が同心庄兵衛に語りかけるシーンである。しばらく、電子地図を眺めながら、一体どのあたりかを探ったが、とうとう、分からずじまいであったが、北山あたりから西陣までとは、またずいぶん遠いなぁと思いはしたものの、先に書いたHIDEの名古屋・中村→参州・岡崎から較べると、そうでもないかとも思う。紙屋川沿いには紙屋さん(製紙業)が多くあったそうで、かつては清流であったのだろう、今でも上流では川床があるそうで、「今夏」もそろそろ始まるらしい。喜助は紙屋川の橋を渡ってと告げていることから、洛外に住んでいたのかと思うが、確信はない。
……………
 そもそもHIDE(秀吉)というのは何モノなのか、未だによく分からない。朝鮮征伐といい、どう考えていいものか、わたくしのような浅はかな者には、なおいっそう分からない。I have nothing to hide、とHIDEさまは仰言るかもしれないが、ひま任せに考えるに値することだと、わたくしは思っている。
……………
 島原に来たついでに、堀川通りを五条通りとの交叉を斜めに横切って、狭隘な町並みに迷い込んでみた。天使突抜という突飛な通り名である。
[天使突抜]
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 島原もそうであったけれど、地名というのは何の拍子(弾み)でできあがるか分からない。この二間(?)あまりの小さな路地が南北に細々(ほそぼそ)細々(こまごま)とつながっている。西洞院通りと松原通りの交叉する付近に五条天神という小さな神社があるらしく(近くまで行ったのに知らない)、「天使(子)の杜」(テンジン→テンシか?)と呼ばれたらしい。この境内を突き抜けて拵えた通り(町)だから、テンシ・ツキヌケ。偶然ではあるが、今nhkが放映している義経と弁慶の最初の出会いはこの天(使)子様という記録もある。
 わたくしは、もちろん存じあげていなかったが、通崎睦美(つうざき むつみ)さんという著名なマリンバ奏者がおられ、彼女の生まれ育ったのが天使突抜一丁目、同名の著書もある。「突抜」という名は他にもみられる。例えば、西本願寺から島原遊郭に向かう途中(突抜一・二丁目)、北野天満宮の東(突抜町)、烏丸通丸太町駅烏丸御池駅中間にある仁王門突抜町など、しかし、いずれも、ツウザキさんのには敵わない。
 テンシ・ツキヌケは五条通りをまたいで、北に一・二丁目、大通りを渡って、三・四丁目、残りの二キロ弱を町屋風の通りを眺めながら歩くと、京都駅にいたる。シマバラ界隈は、また訪ねたいと思っている。特に何があるわけでもないが、その「なさ」が、あるいは、かつて「あった」という、おぼろげさがなんとも肌ざわりがよい。

御土居の範囲(京都市HP)
http://www.city.kyoto.jp/bunshi/bunkazai/odoi.htm
青空文庫どすえe。(森鴎外高瀬舟
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/691_15352.html