成果主義とは

 五月も半ばとなり、新緑もあでやかに、そして、これからはさまざまな自然の恵みがいただける時節でもあり、ありがたい。もう、梅もそうだし、順不同ではあるが、桃、梨、杏、葡萄、林檎、無花果、そういう実が続々とたわわになっていく。
 数日前に電車内の広告で成果主義という言葉をみかけた。ネットで検索すると、その定義は、平たく言えば、ある一定期間の目標値にどれだけ近づいたか、あるいは超えたかという物差しでもって、例えば給与などの査定に採り入れることのようである。ま、よりベッタリと表わせばノルマそのものとなんら変わらないのではないかとも思う。堕ちきった企業体質を少しでも変えようというのであろうか、上記の内容は、貴社でもどうぞ人事システムを導入しませんか、というようなPR記事だったような気もする。なるほど、景気低迷以来、労働意欲も落ちているだろうから、あるいは、企業側からみれば不要な雇用者もいるのだろう、このあたりでバッサリとコトを進めるためには好都合な道具なのかもしれない。ノルマといえば旧社会主義国において、そのシステムが「確立」及び「徹底」されていて、顕著な例では出版物がある。計画経済というのは当初目標があるから、たとえ、ある作品が予想以上に評判が良く、出せば売れると分かっていても、年初に1万部と決められれば、もう、それ以上増刷することはなく、みすみすベストセラーを逃すこととなる。あるいは、トルストイであるとか、ドストエフスキーであるとか、お馴染みの作家であろうと、その才は評価せず、他の無名作家と同じ扱いのうえで、出版計画がなされていた。したがって、日本ではニ大作家の作品(書籍)は洪水のごとく出回っているが、意外にもモスクワの書店ではなかったりした。そういう変な現象が生じてしまうのが計画経済であり、ノルマ、そして、ひいては、成果主義へと逆引きできる。今、成果主義といわれるのは、たかだか1年のサラリーを丁か半かで決める程度のことであるから、始めから低いノルマを設定すれば良いことである。他の事情は知らないけれど、わたくしには高校時代にその経験がある。体育の授業で百メートル走の実技試験(タイムトライアル)があった。教師は何を思ったのか、実技の前、生徒一人一人に白紙のメモを渡し、自分自身で何秒で走ることができるか、想定時間を記入せよと命じた。各人、自身の走力なぞ測ったことがないので、戸惑いながら、自分なりの秒数を書き込んでいたと思うのだが、わたくしは、2・3年前までタイイク会系で、しかも短距離走専門だったことから、ある程度の推測はついていたので、(自分の走行可能な時間より)+3秒ほど上積みして、提出し、実技に向かった。結果は予想どおりで、ストップウォッチとメモを交互に見ながら、驚いていた先生の顔が今でも浮かぶ。そのことが、学業成績簿に結びついたかどうかは分からないが、成果主義という中には、そのような問題もはらんでいるということは容易に想像できる。あるいは、得意の護送船団式で、ノルマを引き下げることは、十分ありうる事態であるし、長年それをし続けてきた例も多数あろう。
 冒頭のたわわな実たちは、できあがった、良い結果を得た実だけを見ているから、そう思うのであって、前提には、着果しないものや、すんでのところで落果せざるをえないものもあろう。事実、梅の木の下にはたまらず落ちてしまった赤茶けた姿がいくつもある。成果とは、そういう仕組みのことであって、むしろ落ちこぼれが存在するからこそ、成る実(果)もあると考えることもできるであろう。一本の果樹から成果したモノだけが市場に卸され、値がつき、商品として世に出回っていく。樹下に残されたモノには決して買い手はつかない。成果主義にはこういう仕組みを看過しなければいけない部分もあろう。おそらく、成果を獲る狩猟や漁撈には馴染む仕組みかもしれないけれど、成果に育てる農耕、牧畜の上に立って、考えると、多少無理があるのかもしれない、とするのは言い過ぎか。ただし、今の日本では農も牧も重要な位置から外れており、わたくしも含めて、日常的にはめったに関わることもないので、成果主義の問題というのはよほどのことがない限り、意外にすんなりと受け容れられるのだろうか、過小ノルマ設定という、かつて、わたくしも使った手を巧みに操りながら。
※また、漁撈を悪く言ってしまった…。