こどもの日なんて要らない

 拙ブロ2/15で狂育と題して、モンカショウ(文科省)の体たらく及び子供は嫌いというようなことを書いた。今日は、こどもの日なので再びふれる。わたくしがこども嫌いなのは、わたくしが、「こどもである(あった時分の)わたくしが嫌いであった」ことに起因していると思う。ろくな大人にならない、そういう感想を自らに思っていた。ただし、それは、教育が悪いとか、親が悪いとかではない、むしろ、今より、まだマシな教育のように思えるし、親にも感謝、は、している。ただ、今思うに、小→中→高と進んでいくことは、その分、同級生の居住地域が広がり、大げさにいえば、それまでの慣習と異なる人間とつきあうことでもあった。たった、数キロの違いでも、住み場所が異なれば、風土・文化も違う、そのような印象を進学するたびに感じていたけれども、その違いは、広く社会を知るという作用よりも、広い社会に対する、あたりさわりのない、つきあいを覚えていったという力の方がより大きくて、自身の中で、こどもの心をせばめていった、あるいは、世の中という現実を前にして、自分の眼、心にフィルターをかけていく思いがたいへん強かった。そういう、こどものわたくしが嫌いであった。また、イロメガネをかけさせた一端は、おとなにもあったと勝手に解釈している。※■しては×(ダメ)、もう「おとな」なんだから、あるいはオニイチャンだから、という一言一句が影響しているとも思う。断じて、おとなのせいにするつもりはないけれど、今のこどもだって、その程度、いや、もっと感性鋭く、そういう、おとなの所作に反応して、外からうかがえしれないぐらい濃度の強いサングラスで、眼だけでなく、心も閉じ、自分世界に没入していく。わたくし自身は、そのこと自体、まったく悪いことばかりではないと思うので、ここは、おとなのことを、もう少し大目に見てもらってほしいという気がする。
 教育を地方にという声もあがっている。わたくしも、前提をいえば、例えば藩校のような、地域に根づいたシステムの方が、よほど良いと考えていたが、行政の地方分権もそうであるが、一体、誰が担うことができるのか、そのことを思うと、とても、地方(のおとな)になんか任せられない、というのが現在の考えである。

 こどもの日なんて不要で、むしろ、わたくし達、おとなの(反省)日があってもおかしくない。以上、とりとめのない文章ではあるけれど(いつもと同じ)、自省をこめて。