「風祭」再読考(2)〜聖イサアク

 今夜は、ほぼフィクションである。

 「風祭」(八木義紱氏)には他に4作が収められていて連作といっても良いだろうか、時代は前後するものの、ある一人の男を中心とした語り綴りである。
 風祭は亡き父、「霧笛」はM市時代の父、「津軽の雪」は母、「鳥」「胡桃」は順子が「私」の傍にいる。
 「私」は前2作では伊作と名乗り、「津軽の雪」他2作は「私」としている。ただし、初出は鳥、以下、胡桃、風祭、霧笛、津軽の雪であり、ここに作品に到る思慮が滲んでいる。
 すべて、私(伊作)のモノローグである。ドストエフスキーが好んでいたスタイルである(バフチンはそう云っていないが)。八木義紱氏とロシヤの関係をここで細かく書くつもりはなく、ただ、読み耽るままにサンクトペテルブルクの光景を想っていた。
 ネフスキー大通りをネヴァ河に向かって歩いていくと、ひときわ目立つのが聖カザン寺院(カザン大聖堂)である。その鮮やかなドームに見惚れていると、見逃してしまうが、その先に聖イサアク寺院が聳えている。ピョートル1世(大帝)の守護聖人の名を冠した由緒ある寺院だそうだ。ただし、わたくしの記憶の中にはほとんどない、なぜか、その理由すら記憶に無い。

 この街を主人公の伊作という名に重ね合わせていた。

 そして、立場は変わるけれども、アブラム(アブラハム)の子、イサクとイシマエルにも想いを畳んでおこう。
 ⇒ (旧約聖書・創世記16章〜)(横浜:大日本聖書館、明34.3/国立国会図書館近代デジタルライブラリーより)
 
 前回参考とさせて頂いた八木義紱文学館で「百年文庫」(ポプラ社)が発刊されたと知る。まだ読んでいない「劉廣福(りゅうかんふう)」(48巻 波)を本日所用近くの書店で求め、あまり長くない作品ということもあろうが、?八木と(大帝を彷彿させる大男である)劉?の勢いに乗せられて、先ほど、了えた。

風祭2