「風祭」再読考(1)〜H駅とK駅

風祭1

 麓で「風祭」(八木義紱氏)を取り出し、読み返した。なぜ、その頃、読もうと思ったのか、その一端が分かったような気がする。30数年経て、少し違った想いで読むことができた。初出は75年6月〜文藝、河出書房新社初版は翌8月、手許にあるのは三版翌々3月)
 同書には5つの作品が収められているが、ここでは表題作について記す。
 風祭の舞台は東京であるが、それ以外に主人公(志村伊作)にとって重要な場所が二ヶ所登場する。ひとつが「あの北海道のM市」で、海沿いの町であることも分かる。彼の故里である。
 もう一ヶ所をK町と謂い、父親(高峰好之)の生地であり、墓所がある。同話は主にK町が舞台となっている。
 以下、フィクション(仮に私小説というジャンルがあったとしても)の世界に現(うつつ)のことを持ちだすのは莫迦げたことであるとは分かっていても、穿鑿するのが現人(うつつびと)であることをご承知おき願いたい。

 M、それが室蘭市であることは八木氏のそれに重なる。Kは山梨県春日居町、現在は合併により笛吹(ふえふき)市の一部となっている。周辺旧町村のほぼ中央を流れる川から名づけられており、伊作も土堤に腰を下ろしている。春日居町は田中好治(八木氏の父親、義紱は庶子として生まれ、母親方の姓を名乗っている)の生地である。実家は《近村三ヶ村の戸長を勤め傍ら造り酒屋を営んでいた》とフィクションの中にもあるが、実際、春日居町(村)の税金を一軒で賄うほどの大店であったと、八木夫人の回想にも紹介されている。(八木義紱を語る山梨県立文学館資料と研究 第10輯 平成17年3月10日発行】
 また、八木氏については土合弘光氏作成による「八木義紱の軌跡」(2010年5月3日公開)に詳しくある。
 上記2サイトについては「八木義紱文学館」で知りうることができた。

 フィクションに戻る。

 伊作は母親の「代わり」(実際は自分の意思のほうが強いと思われる)として父親の墓所を訪ねる。笛吹川の土堤に向かう場面である。

 『彼はH駅(かつてのK駅は名前が変わっていた)へ向かってゆっくり歩き出した。それから狭い路を南に折れて、笛吹川の河畔に出た。』

 (再び、現に戻る)

 このH駅とK駅の部分で止まってしまった。
 
 この付近にHを頭とする駅は(東山梨以外には)なかったはず、と、確かめたが、やはりそうである。上記、八木義紱文学館サイトに「八木義紱関連スポット」があり、「小説「風祭」の舞台 〜 春日居町 〜」を覘くと、伊作が向かった墓所のある一念寺は現存する一行寺だと同サイトにあり、春日居町にその名をみつけた、そのことについては今、わたくし自身で確かめる術はないし、そうだと受け止めて、以下のことを考えている。また、一念寺で紹介された北原氏のお宅は「青梅街道へ出て西へ十分ほど走った隣り町の人で、甲府で商売、、、」という条りや、最寄の駅まで送ってもらった(I〜石和)、(思い立ったのか)途中で、K〜春日居町の役場に向かってもらうともあり、今でも役場(現在は支所)の隣に郷土館(文中では公民館の中にある郷土資料室)があるから、K町は春日居町しかないのであろう。「狭い路を南に折れて、笛吹川の河畔に出た」という条りからも周辺にそのような環境にある役場の形跡は他に見当たらない。
 
 しかし、H駅(そしてK駅)が分からない。 
 M(室蘭)といい、K町(春日居)、I駅(石和)とフィクションが現実と対照しているのに対し、H駅がどうしても気になってしまう。(もちろん、人物名は別物と考えている)

 22年前に伊作はこの場所を訪ねている。(フィクションへ)
 この際は、(正規に)右膝の神経痛でままならぬ母の代理として訪ねている。伊作が母に場所を尋ねている場面である。

 母〜「・・・、なんでも甲府に近いなんとかという村だった、・・・」
 伊作「なんとか村じゃ、」
 
 この会話のあと、彼は高峰家の嫡子である治彦を訪ねた。
 
 治彦「甲府の駅からたしか二つか三つ手前のKという小さな駅で降りて、そこから車で、」
 
 異母兄の云うとおりに従えば、甲府から二つ目が現在の石和温泉駅(I駅)、そして三つ目がH駅ということになる。1993年に中央(東)線の山梨県内では四つの駅が名称を変えた。残念だったのは初鹿野(はじかの)駅がなくなってしまったこと(現在は甲斐大和)であるが、他に、勝沼勝沼ぶどう郷、石和⇒石和温泉、そして、別田(べつでん)⇒春日居町である。
 風祭が世に出たのは75年である。傍文であるが、伊作が二度目に一念寺を訪ねた際に紹介された北原某氏から渡された名刺には「日本電信電話公社公認 信和電気通信建設株式会社」ともあり、H駅が別田と仮定した場合、K駅に変わる前のことであるから、なぜ、B(べ)でなくH(へ)なのかは分からないでいるが、H駅というのは「別田」なのだろうと思う。
 
 ただし、『H駅(かつてのK駅は名前が変わっていた)』という一節にこだわっている。

 JR東日本のサイトをみている。甲府付近の駅がいつ頃開かれたかを確認している。甲斐大和駅あたりから始める。

  ■甲斐大和(初鹿野)/1903(明治36)年2月1日
  □勝沼ぶどう郷勝沼)/1913(大正2)年4月8日
  ■塩山/1903(明治36)年6月11日
  □東山梨/1957(昭和32)年2月5日
  ■山梨市/1903(明治36)年6月11日
  □春日居町(別田)/1954(昭和29)年12月1日
  ■石和温泉(石和)/1903(明治36)年6月11日
  □酒折(さかおり)/1926(大正15)年2月11日
  ■甲府/1903(明治36)年6月11日

 甲府から三つ目、春日居町に変わるまで開駅以来、別田駅に変わりはない。H駅がかつてのK駅から変わった事実は見当たらない。

(フィクションへ)

 北原氏宅での条りで、高峰好之は明治14年生まれで、存命ならば今年で満94歳になる、とある。逆算すると、?今年?は1975(昭和50)年となる。そして、22年前は1953(昭和28)年である。その当時、甲府から二、三駅のK駅はH駅でも、現在の春日居町駅でもない。そこには駅は無かった。
 
(現へ)

 春日居町駅のひとつ東側に山梨市駅というのがあって、山梨市の中心駅でもある。先月初旬にその辺りをさまよっていた。(拙ブロ:兄川・弟川10月26日付)この辺りを地の人は日下部(くさかべ)と謂う。小原(東西分村)、下井尻、七日市場の四村が合わさって日下部村(1875〜明治8年)、さらに近隣と合じて山梨市を名乗った(1954〜昭和29年)。8年後(1962〜昭和37年)、長く続いた中央線「日下部駅」は「山梨市駅」と名を変えた。

 K駅は日下部駅であると考えると落ち着く。(甲府から、二つか三つ手前のK)

 風祭の冒頭は「一念寺の山門の前で、伊作は車をおりた。」で始まっている。一念(一行)寺と春日居駅(K→H駅)とは車で2〜3分の距離で、当時還暦を少し過ぎた伊作でも歩けない距離(10分程度)ではない。強い雨が降っていた気配もないが、車(タクシー)を使っている。(伊作が東京から列車を用いているのは、北原氏の手配で送り迎えを受けている条りで分かる)
 22年(1953年)前の伊作は日下部(K)駅で降りて、車に乗ったのだろう(現在の山梨市駅と一行寺とでは数キロある)。当時、お寺の最寄りはそこになる。治彦も「駅で降りて、そこから車で、」と遠い記憶をたどり、そう振り返っている。
 そして今回(二度目)は甲府(ここも偶然K駅)から直接車で向かったという推測ができる。K(日下部)駅がY(山梨市)駅に変わったことを知らずに、21年前に開いたH(別田)駅と勘違いしているフシがあるから、(往きに)両駅を用いたとは考えにくい。いずれかで降りたのであれば、気づいているであろう。もしかしたら、東京へ戻るために向かったH(別田)駅で知ったかもしれない。

 くどいが、穿鑿の結果である。
22年前(最初)
(往)新宿?→日下部(K)駅→車でお寺へ (復)不明だが、おそらく同じルートか?(当時、特急列車はなかったと思うので、のんびり、鈍行で戻った?)
2度目
(往)新宿?→甲府→車(タクシー)でお寺へ
(復)北原宅→(I=石和駅へ送ってもらう)→(途中で気が変わり)K(春日居町)町役場へ(車には帰ってもらう)→歩いてH駅(かつてのK駅と思い込んでいる)→南に下って、笛吹川に出る→不明だが、別田(H)駅から列車に乗るが、甲府に戻っている気もする。当時(75年)、特急「かいじ」はなく、山梨市駅普通列車のみの停車であったと思うので、急いでいれば、甲府に向かって、「あずさ」に乗るであろう)

 ただ、ここにフィクション(小説)の妙がある。実は、まだ、以上のこと、甚だ疑わしいと考えている。だいいち、現(うつつ)に置き換えることの意味がほとんど無い。