この下に高田あり

 以前から直江津には何度か伺っているが、その隣町である高田はなかったので、今回、ここを逗留の場とした。直江津と高田の二都は1971(昭和46)年に合併している。当時、高田市の方が街の規模は大きくて、人口は7万5千人、直江津市を合わせて12万人の上越市ができた。ツインシティ(双子都市)という謂い方があるが、ここの場合はそれには中らず、いわば、二つの町がひとつになったということでしかない。越後(頸城〜くびき)の国府が置かれたとされる直江津に対して、高田は高々400年の歴史でしかない、というようなことを云うつもりない。そもそも違うのである。(ただし、国府の位置は分かっておらず、また、なぜか越後〜五智国分寺辺りはあとになって高田市より直江津市編入されているという経過もある)

 合併に際して、ど真ん中に市役所が置かれた。もっとも、その辺りは上杉がゐた時代に栄えていた春日山である。今も二都の中間に高速道のインターが築かれ、新興の商業地ができあがっており、?上越市?のくらしの中心となっており、直江津と高田は現在もなお異なる町で、その間に(仮称)春日山市が存在しているような錯覚に陥る。

 雁木というのは雪の街を訪ねた際にみることができるが、氏家 武氏による「雁木通りの地理学的研究」という著作の中に詳しくあるそうである。「雪国が育んだ雁木の再整備手法に関する調査について」(国土交通省北陸地方整備局)というサイトにあったので、これにより分布を確かめると、日本列島の脊骨に沿った北側にあり、やはり新潟に多く、秋田や青森と続く。高田の後に訪れた飯山(こちらは信州)にもそれはあった。
 総延長という視点で記すと、高田のは全国一長く16キロ前後、同県の長岡市が第二位で旧栃尾市を足しても遠く及ばない。(氏家氏著作は98年の発刊である)
 わたくしは舐める程度しか歩いていないが、着いた夜に伺った呑み屋さんのある仲町通りの雁木をあくる朝、潜(くぐ)ってみた。ひっそりとした初秋の空気の中で、昨夜の酔い加減と異なる気分を娯しんだ。宿への戻り途、雨が降りだしたが、雁木があるから心強い。

仲町通りの雁木たち]

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 かつては豪雪地帯であった。気象庁のデータによれば1945年2月26日に最深積雪377センチ、1969年1月1日には1日の降雪量として最大の120センチを記録している。大雑把な謂い方として暖冬(温暖)化にある地球であるが、昨冬というのか本年も161センチ(1月15日)という積雪に遭っている。気象庁のサイトより
 自然は分からない。

 標題は寛文年間の話である。「東書KIDS(キッズ)」(東京書籍株式会社)というサイトにある都道府県の豆知識/新潟県より引用する。
 《大雪の記録では1666(寛文6)年の「越後大雪、高田積雪一丈(じょう)五尺(しゃく)(4.5m)」が有名で、この時、加賀藩の飛脚(ひきゃく)が、「この下に高田あり」の立て札をたてたそうです。》
 高田はその年、大地震にも遭っている。旧暦で表わせば寛文5(1665)年12月27日、今暦の寛文6(1666)年2月1日であり、大雪も旧暦では65年のようである。つまり、雪と揺れとそれに伴う火災が同時に起きたことになる。
 飛脚がどんな荷書を運んできたのかは分からないが、被災お見舞いの物資でも運んできたのであろうか。
 そう想うと、この下に悲しみがあるという響きが合わさり、届けることが叶わなかった飛脚の無念さが立て札に表れているのかと想像してしまう。

 「高田を立つ道の上なる雪少しく融けたり」

 森〓外翁「北游日乗」、明治15(1882)年3月8日の条りである。

 この年の積雪量は分からない。


拙ブロ
 春の日の山(09年4月19日付)
 猶ほ越(09年4月20日付)
 直江津歩ル記(09年4月23日付)
 直江津歩ル記2〜海をみた(09年4月25日付)