志゛まん焼き(上田・海野町商店街)

 海野町(うんのまち)商店街は北国街道の宿場町として栄えた。以下、海野町商店街のサイトを引用する。

 《海野町の誕生は今から420年程前、戦国の武将真田幸村の父、昌幸が天正11年(1583)上田の地の千曲川支流の河畔、尼ヶ渕に城を築くに際し、先祖の地、海野郷(現東御市本海野)から住人を移住させて町並みを作らせたのが起源です。
 江戸時代には北国街道上田宿の宿場として繁栄しました。
 明治時代になると生活様式も洋風化がすすみ、商店の業種も多様化し、代替りが顕著になりました。
 明治21年上田駅開業に伴い、松尾町・天神町等が誕生し、隣接する海野町も商圏が拡大され街が賑わい上田の中心街が確立されました。》

 距離にしてわずか300メートルの両側に60店舗が並ぶが、上記サイトにある地図をみると2割程度が空いている。訪ねた日は土曜日の午頃であったが、人通りは多くない。

 と、商店街の一角に人が群がっている・・・どうやら、皆さん、焼きあがるスイーツを待っていらっしゃるようである。朝からコーヒー以外、口にしていないと気づき、ひとつ頂くことにして列に並ぶと、「もう、注文したから、どうぞ」と、勧めていただくが、焼き方は注文を取っている場合ではないらしい。ひととおり先客の分を焼き上げて、わたくしの番である。

 イッコください、と、用意しておいた80円を握りしめている自分が初めてかわいくみえた。

[お店側を撮ると、自慢が裏返しになる、ので、お店を背にしてパチリ]
 志゛まん焼きも表裏しっかり(適度に)焼くのがコツなのかも?
(幟は志゛まんやき、サイトには志゛まん焼とある、あまりこだわっていないのも良い)

じまん焼き2画像0184 じまん焼き3画像0185

 富士アイスというお店で奥は飲食店になっている。

[マバラに見えるが、手前にタクサンいらっしゃる]

じまん焼き画像0183

[無造作に貼っていらした]

じまん焼き4画像0186

 わたくしはカスタードクリームが苦手なので、アンコをイッコ。

[食べ(かじり)方が汚い]

じまん焼き5画像0187 じまん焼き6画像0188

 「富士アイス」というお店に心当たりはないだろうか。

 北海道浦河町にある洋・和菓子屋さん「お菓子の甘泉堂」のサイトにアイスクリームの歴史という頁がある。横浜馬車道で初めてアイスクリンが売られたのは明治2(1869)年だが、厳密にどの程度かは分からないとしても大量生産を初めて手がけたのが東銀座4丁目の尾上氏(清涼飲料工場経営)と深川工場で製造し、(おそらく)都内店舗で販売していた富士アイス・レストランという記述がある。社団法人日本アイスクリーム協会サイトにも富士の名が出てくる〜こちらには大正9(1920)年に操業開始とある。

 銀座4丁目に教文館という書店があって、もう数えることのできない数を通り過ぎているが、入ったことがない。富士アイスはその1階と地階にも店舗を出していた。以下、同書店のサイトによる。

 《1920(大正6)年から1959(昭和34)年までの40年間にわたって書かれた代表的日記文学断腸亭日乗」からは、戦前・戦後の飾らない生活風景や世情に対する荷風独自の批判精神を読みとることが出来る。
 荷風は当時の東京の二大繁華街であった浅草と銀座に頻繁に出入し、さまざまな人々と会合しているが、銀座での拠点の一つが 教文館 の地下1階と地上1階にあった「冨士アイス」であった。
 本書の中に「不二アイス」「フジアイス」「不二地下室」等の名前で数多く登場するこの店は、昭和初期に深川に工場を持ち、各地に車で運んで日本で初めてアイスクリームの大量生産販売を行っていた評判の会社で、銀座の店舗はレストランも兼ねて食事を楽しむことができた。荷風はここで気の措けぬ友人達と夕飯を共にしながら、食後のアイスクリームの涼味にしばし時代の憂さを忘れていたのかもしれない。》⇒文学の中の教文館(四)より引用

 この富士アイス・レストランで志゛まん焼きを提供していたかどうかは疑問であるが、おそらく、アイスの方は全国の小売店、飲食店にも出荷されていたのであろう。そして、各店舗は「富士アイス」を名乗るが、暖簾分けや今でいうフランチャイズとは異なり、かなりおおらかに名前を使用していたのかもしれない。製造元である富士アイスの方も宣伝になるから「ま、いいか」程度に思っていたのだろうか。
 おそらく、広告がなくても売れたであろう、まだ限られた場所、階層でしか食べることのできなかったアイスクリンである。もちろん、世間には扇風機もエアコンもない時代である、抑えようのない暑気払いとして、安く買うことができれば誰もが手(口)にするだろう。アイスクリーム協会のサイトには明治9年(村上)開新堂、そして、東京〓月堂、明治33年銀座資生堂がアイスクリームを供したというが25銭、仮に資生堂のこととして、米一升15銭の時代である。高嶺の冷菓(氷菓)であったから富士アイスなどによる大量生産はアイスクリンの歴史を大きく変えたことになる。その後の富士アイス(製造元)についてはわずかな情報しか得ていない。追って、いつか、また。

 志゛まん焼きに戻る。

 小さい頃、氷屋のおじさんが冬になると焼き芋屋さんになっている姿をみて、社会、経済の仕組みを何となく知った気分になったが、「各地」の富士アイスでもおそらく冬の対策として「志゛まん焼き」が誕生したのだろう。こうなると、本家の富士アイスも手が出せない。アイスクリンの富士アイスと志゛まん焼きの富士アイスは全く別物といってよい。中にはアイスをやめて、焼き一本にしたお店があったかもしれない。

 上田・海野町商店街の「富士アイス」はどうだったか。あいにく店内に入っていないため詳しいことが分からないが、同商店街のサイトにミニページがあり、そこにはソフトクリームはあるが、アイスクリンはない。

 志゛まん焼きについて少し調べた。といってもネット検索だけに頼っているので、いつか実地検証が必要だと思っている。

1.甲府市内にいくつかある。同じ経営なのだろうか。「銀座富士アイス」という。(サイト未発見)

2.富士アイス〜千葉・八街は「ふじアイス」とあり、さらに「志゛まんき」と表記されている。これは八街市民ブログというサイトである。白餡バージョンがあるらしい、シロアン好きのわたくしとしては、是非。

3.他に栃木県佐野市(ふじや食堂)、栃木市富士屋/旅色)、埼玉県川越市富士屋小江戸川越いい店さがし/社団法人小江戸川越観光協会)、群馬県沼田市の富士屋食堂(サイトおよびiタウンページにはないが、電子地図上にはある)など。

 また、千曲市(屋代)には知野じまん焼(iタウンページにあり)というお店があり、岡谷市(長野県)に富士アイスがあったという情報もある。

 1と2は富士アイスを名乗り、3は富士(ふじ)屋と称しているが、両者ともにアイスを扱っているようである。

 以上を図マップ化してみた。傾向として、明らかに北関東、甲信に所在していることが分かる。八街というのは以前拙ブロに記した「牧の開拓」のひとつとして入植した八つ目の開拓地(街)であるから、存外という気もする。(黄金・大金(小金城趾あたり)/08年2月29日付)
 だからではないが武田、上杉、真田・・・と、志゛まん焼きの朴訥さとを重ねてもいる。

[Z´MAP〜志゛まん焼き]

じまん焼き図マップ

 横浜でアイスクリンを初めて売りだした町田房蔵は勝海舟に随いて咸臨丸で米国に渡り、その製造方法を習得したという。

 上田という街の?しゃき?が此処にも在る。

 ブログとは全く関係ないが、近くのマーケットで、つい、お買物をしてしまった。

[しっとりきなこ&マコロン]

しっとりきなこ マコロン

 少し、商店街の本筋から外れてみることにする。(再々続)