沼垂(ぬた)くる〜三社さまへ(新潟泥縄記)
土は作場(農地)に向いている質とそうでないものとがあると聞いた。得た情報を記すと、土は大まかに区分すると砂土→砂壌土→壌土→埴壌土→埴土とあって、肥沃な土地という場合は中央の壌土をさしているそうだ。砂土はというと捌(は)けは良いが、保水力に乏しく、水分を欲しがる作物には物足りない。稲などはその代表である。一方、右へ向かうほど性格は真反対になる。埴土は歴史の教科書で最初の方に出てくる埴輪の材料となる。水を多く吸収するが放っておくと涸れてカチンカチンになる。捌けも保水もないことはないが忽ちのことで、餅のようなものである。
以上は水捌けも悪く、保水力もない拙い脳でもって考えたことである。
前置きが長くなったが、新潟のもとの姿というのは上記の右側に属す土地であって、泥ゝ、沼(ぬ)っ垂りであることはすでに書いた。
花梨(かりん)なのか、榲〓(まるめろ)なのか、わたくしには分からない。越の華酒造から信濃川を平行している。つまりは川には戻らないつもりでゐる。沼垂に?ぬったり?である。もっとも、そのような言葉はない。
ぬ(塗)たくる拙いブログの続きである。
[殊のほか高い樹]
輸送関係の貨物車が頻繁に往来する表通り(国道113号)に比べ、ここは静かである。すぐ先に天井川や海が控えているとは想像しにくい。寺社や邸の鬱蒼とした樹木がそうさせているのかもしれない。とはいえ港が近いことも事実である。何を納めていたのだろうか蔵がいくつもあって、商人・職人の香りが漂ってくる。味噌や醤油、酒、納豆、漬物など発酵食品関係を造るのに適していると今代司(いまよつかさ)酒造?のサイトにある。もちろん、同酒造所あたりも沼垂の地である。
[樹景]
[古蔵]
今わたくしが立っているのは住居表示で表すと三和町である。此処を含め信濃川右岸から新潟駅手前一帯を「流作場(りゅうさくば)」あるいは開拓者の名を採って「玄的(げんてき)」と呼んだ。
駅(新・街)と新潟島(古・街)を萬代橋がとりもっているが、この通りを東大通という。橋の手前に大きな叉路があり、「流作場五差路」という。地名としてもう他には流作場保育園(水島町)ぐらいしか残っていないと何かのサイトでみかけたが、電子地図で確認すると、かなり広い範囲である。
まだ、この辺り(流作場)が泥地であった頃、安倍玄的という村松藩の御典医が中心となって長岡藩より援助を受け、作場(糧を作る土地)の開拓を試みた。延享3(1746)年のことだと、深い所縁のある三社神社の宮司さんが語っている(「まち・ひと・むかし」新潟市 流作場The万代インターネット商店会より)。玄的が仕えた村松藩は長岡藩堀直竒の次男直時が祖といわれる。玄的の頃は4代後の直尭(なおたか)の頃か、もっとも当時玄的は85歳だったというから、典医としてはとうに身を引いており、作地に専念できたのであろうが、それにしても恐れ入る。その点について、流作場にお住みになっている方であろうか三社の宮司さんにお聞きになっていて、70代には紫雲寺(塩津)潟開拓を手がけていたが、どうも巧くいかなったようである。(「流作場を考える仲間たち〜流作場・万代(新潟市)」)
同時期(享保11〜1726年)に信州の人で竹前小八郎、権兵衛兄弟が自費で同潟の開拓を幕府から認められ、只今の紫雲寺四十二郷を形づくった。
想像だが玄的は紫雲寺潟の開拓に資金調達を願い出たが、新発田藩は財が許さなかった。資金の問題だけで諦めたわけではないのだろうが、玄的は長岡藩に眼をつけ、流作場を拓いた。
小八郎については諸説あり、紫雲寺商工会のサイトに惹かれた。
江戸で煙草商を営んでいた小八郎が奉公人の話を聞いて私財を投じた。志半ばで斃れるが、兄の権兵衛が遺志を継ぐ。屋号を米子屋といって、現在の長野県須坂市米子(よなこ)の出で、旧紫雲寺町(米子〜よねこ、という地がある)と姉妹都市、それを新発田市になっても引き継いでいるそうだ。
玄的については僅かなことしか分からない。三社神社を訪れた理由もそれではない。ただの偶然である。
[流作場・安倍玄的の碑]
[神輿庫?]
[新・街がすぐそこまで迫っている]※右画像の背に万代島が。
[龍ノ口(龍頭)]
玄的や米子屋(小八郎、権兵衛)が「平らな」地を拓いている時代に重なって享保の改革という濁流が押し寄せていた。