猶ほ越

 越(こし)の国というのは広くて、しかも長い。おおむね福井県敦賀(関峠)から新潟県ひょっとすると鼠ヶ関を越えて、山形県出羽国)の一部を呑みこむ版図であり、加賀というのもその中にゐる。
 そのほぼ中間に直江津がある。春日山に因めば重臣直江兼続によって拓かれた港(津)ということらしい。
 ややこしいが直江津には継続団子という名物がある。一瞬、ドラマにあやかった商品かと思い違えそうであるが、歴史は古い。何軒かあるひとつの軒先に林芙美子さんの作品が紹介されていた。
 「つながっているからケイゾク」というのだそうで、いたって、分かりやすい。近頃、味の嗜好が甘⇒辛に変わりつつあるため、そのあと、3軒ほど団子屋サンを覘いたけれども、とうとう買うことはなかったが、あとになって、惜しいことをしたと、悔やんでいる体たらくである。
 さらに調べてみると、いくつかのサイトで直江津に(10年前に)開設された米穀取引所の存続を願う市民の思いが叶った記念として売り出されたのがケイゾクの始まりであるとあった。1893(明治26)年という記述が多いが、確定ができない。ただ、1903(明治36)年より団子の販売という頸城ハイヤーのサイトもあるから、10年ごとに存続を見直すという取引所規定に照らせば、一致しているようにも思われる(このことは依然、不明な点が残るので、宿題とする)。この頃というのは日清戦争(94〜95年)があり、バブルが生まれ、さらに日露戦争(1904〜1905年)というバブルの表皮にタンコブのような悪性バブルが発症した時代でもある(このあたりは黒岩比佐子さんの『日露戦争 勝利のあとの誤算』をどうぞ)。
 そのような国情もあって、存続(継続)が危ぶまれていた直江津の取引所はその後も生き永らえて(ケイゾクして)いるようだ。

 「期限満了に伴う取引所の整理改善」という記事があった。神戸新聞 1923(大正12)年の本日(4月20日)付である。以下、神戸大学附属図書館のサイトによる。

《我邦現在の取引所は株式組織四十二箇所、会員組織一箇所、合計四十三箇所なるが其の内本年中に営業年限の満了するものは左の二十五箇所である
 (略)
 大阪三品、直江津米穀、津米穀四日市米穀(ママ)、名古屋株式、静岡米穀、仙台米穀、岡山米、広島株式、和歌山株式、熊本米穀(以上大体十二月中)
 右の外十八箇所は来る十六年九月三十日迄に順次満了に達し神戸取引所は十五年九月が期限である、而してこれが継続を出願するには免許年限満了前三箇月以上六箇月以内に願書を提出する規定故九月三十日満限の分は、六月中に其手続を要し既に近江米、桑名米穀の両取引所は本月早々提出済の筈であり他の取引所も本年より十六年に亘って孰れも皆継続の出願運動を起すべきは疑いないが政府及真面目に其改善を期する向では此際思い切って淘汰の実を挙げ之を減少する意向である然らば如何なる程度迄減少すべきかと云うに荀くも独立して取引所の機能を充分に発揮し得ない者が先ず槍玉に上るべきは云うまでもない元来現今の取引所数は余り多きに過ぎ其中には殆ど取引所の働きをして居らぬ不備不完全のものもあるから取引所を米穀十箇所株式五箇所位の数に減じてよいと論じられて居るが斯かる大鉈は到底現内閣に望むことは不可能であるとしてもセメて半数位に整理すべきであらうが如何せん此取引所濫設の現状態を誘起した裏面には複雑な政当関係等が纏まっているから政府が如何に口に改善淘汰を唱えても其手は必ず鈍るものと観測されて居る尚主務省は本年中に満了を告ぐる取引所に向って近々係官を派遣して其内容調査に着手する筈である 》

 記事の見出しだろうか、

「徹底的淘汰は恐らく困難」とある。

 直江津米穀取引所がいつ閉じられたかが分からない。

 世界恐慌というのは1929(昭和4)年が端緒というから、この10年間(23〜32年)においては、もう、取引だのといっている場合ではなかったのだろうと想像はできるが、やはり分からない。

 わたくしにとって、もっとも古い直江津は小学校時代の社会科教科書の中であったと思う。高田ではなく、直江津、と、遠い記憶のその先にある。今も健在である。

直江津駅前の雁木通り]

直江津がんぎ画像0185

 寄り道が過ぎた。少し、直江津の街を歩く。(ケイゾク