日東第一形勝

 朝鮮通信使は1607(慶長12)年 から1811( 文化8)年に至る計12回渡ったとされる(2回目は大坂まで、12回目は対馬まで).。つまり、江戸開闢以降のことである。通信使の順路は大陸(半島)を発ち、対馬玄海、関門を経て、瀬戸内へと航(すす)んだ。鞆の浦はその潮待ちの処として、立ち寄ったらしい。潮目というのは異なる流れが合わさる地点を指すそうであるが、それとは違う。おそらく海底の複雑な形が影響しているのであろう、潮の流れが複雑で、航行にとってはもっとも気になる現象がが鞆の浦あたりで生じるらしい。今、手許から逸しているが飯嶋和一氏の著書「始祖鳥記」はそのことについても記していたように記憶にある。もちろん、潮だけではなく、風の流れ、そして、舟民が地形や星(天体)に卓越した知識を有していることも詳しく書かれていたと、危うい記憶域の中に辛うじてある。
 標題は1711年(正徳1年〜第8回)に従事官(副官?)として来日した李邦彦が対潮楼(この名は第10回正使、洪啓禧によって付けられた)からの望みをあらわしたとされる。家宣襲職(の御祝い)が使命とある
彦根に関わる通信使一覧表滋賀大学産業共同研究センター)。家宣が将軍職に就いたのはその二年前、李が謁見したのかどうか分からないが、翌年(12年)に将軍は斃れている。

 「日東(日本の別称あるいは朝鮮国より東にあるの意)でもっとも秀でた(第一)形勝」であるということらしい。ただ、形勝については、少し引っかかっている。対潮楼から眺める鞆の浦はまさに景勝であるけれども、李はそうは記していない。あくまでも形勝とある。そう読むと、景色を一頭(第一)と示したのではなく、その地勢、地形が戦略上優れていたと考えることもできる。要害とでもいうのか、まだ、航路が優先されていた時代において、せとうちが、鞆の浦が、親善団とはいえ、李の眼にはそのように映っていたのかもしれない。

[対潮楼から]

日東第一形勝(対潮楼)

 とはいえ、景は美しい。

 よけいなことは書かない。

 実は前夜(16日)から旧知の友に案内していただいている。昔から大食漢で、この昼も鯛めしをご馳走になったが、「二人分ですよ」というお櫃のほとんどを食べたのは彼である。もっとも、わたくしはビールを呑みながらであり、申し訳ないことにアッチは帰りの運転もある。せめて、食べてください、ね。

鞆の浦]※狭く、坂ばかりの径は地域全体が砦?

鞆の浦景

[赤いポストを撮りたがるのは、なんだろうね]

鞆の浦景2

[さより干し]

 サヨリ、細魚あるいは針魚、〓と記す。前夜、友人宅であぶってもらい、酒の肴にしたばかり。尖った先から丸ごといただける。

鞆の浦魚景

[ゲタも干してあった]

 シタビラメなどをゲタというらしい。

鞆の浦漁景2

[インスタント食品専門の飲食店?]

 時間の都合で寄ることができなかった、心残りである。

インスタント食品専門飲食店?

 本日(17日)はお昼のみをいただいた。ようやく、1日3食から脱け出すことができた。
 夕方には大阪へ移った。