ある獵人日記

 まるでネットのライン(回線)を通して、パソコンの画面から飛び出して来たような速さである。前回の拙ブロで岡田和也さんの新訳書について記した。そのあとに、早速、版元へ注文の意志を送った。翌日、注文意志の確認メールがあり、数日のうちに届けるとの意志をいただいたけれども、本日(21日)、郵便受けを見ると、もう届いていた。
 不意打ちである。
 あいにく、所用があり、そのまま、背のリュックに納めるしかなかった、雑踏の中で、封を開けて、読む気にはならない。そして、先ほど、開封して、読み始めた。『黄金の虎 リーグマ』を拝読したのは数年前のことであったか。『森の人 デルス・ウザラー』(ヴラジーミル・クラーヴジエヴィッチ・アルセーニエフ著)を経て、わたくしにとっては三冊目の『岡田本』である。著者はリーグマと同じ獵人作家フセーヴォロド・ペトローヴィチ・シソーエフ氏である。
 今回は訳者である岡田さんの解説・あとがき、そこを先に読み、ここでも少し紹介したいと思う。

 舵を失った酩酊船のように二十世紀末を漂っていたロシアの片隅に私(注;岡田さん)が移り住んだのは、一九八九年の晩秋のことだった。ハバロフスクというアムール河畔の町で、ロシア語の海の底でもがきながら放送用原稿の翻訳に明け暮れる日々が何年か続いた。あるときふらりと立ち寄った書店でようやく水面に浮びあがったオットセイのようにきょとんとしていた私の目にとまったのが、森の雪に悠然と身を横たえる金毛のトラが表紙に大きく描かれた一冊の児童書だった。(以下、略)

 それが、前記、リーグマである。01年に、本郷だったか、新読書社へ伺って、求めたことを憶えている。

 岡田さんには悪い(失礼である)が、酩酊者が酩酊船に乗ったようで、可笑しかった。だからこそ、船も乗客も波長があっていたのかもしれない。20年を経て、埋もれていた宝物が次々と掘り出されて、今、わたくしどももふれることができることが幸いである。

 六花(РИККА)の更新が遅れていることを十分承知しているけれども、プログラムに不具合があり、別の方法で試みているところであるが、わたくしのことである、保証はできない。

 本日、そのようなお断りのメールを出した。

 もちろん、庇ってくれて、いつでも、「雑に」お願いくださいと、返ってきた。

 アムールが結氷したと、さいごにあった、

 上記あとがきの結句にもあったアムール、冬日幻想を載録しておく。
 
「アムール、冬日幻想」

太陽と白い地平がふれあうとき

あらゆるもののうしろに影がのびる

無のようにはてしなく

有のようにあたたかく

永遠のようにしずかな影

影のさきはみえないけれど

かすかにきこえてくる

かぎりなく無言にちかいだれかのささやき


“Амур. Зимние грёзы.”


В миг соприкосновения солнца и белого гаризонта
За спиной каждого уходит тень.
Тень беспредельная, как≪нет≫.
Тень тёплая, как≪есть≫.
Тень тихая, как вечность.
Края тени не видно,
Но едва слышно чьё-то шептание,
Бесконечно близкое к молчанию.