艸絲

 鰻屋さんのある一帯を道修町(どしょうまち)という。この街については拙ブロで二度記したことがあるが、「薬のまち」として有名である。
今冶水(明治期の名づけの妙)07年8月26日付
アンメルツの謎08年1月16日付
 その際「くすりの道修町資料館」(名称を間違えて記してしまったけれど)というサイトで歴史をほんの少し知ったつもりでいたけれども、まったく知らないことに気づいて、今回、訪ねてみようと思った。それもあって、宿を近くにとった。そのことは同館で求めてきた『くすりのまち道修町/展示パネル集』と『企画展示(パネル集)』を只今めくっているので、また、少し、知っているつもりになってから、記してみたいと思う。道修町は東西に横たわっており、今で云えば阪神高速1号環状線が往って、復(かえ)るルートに囲まれた地域であり、備後町淡路町、伏見町、平野町もほぼ同じ地理的位置にあるが、なぜか安土町だけは少し狭くなっている。「昔」は堀であって、東横堀、西横堀と前記展示パネル集の地図(江戸安政年間と明治37〜1904年)にあった。
 実は昨夜(26日)も道修町にいた。街を漂うままに、腰の座りが良さそうなお店に入ったが、そこがたまたまドショウ町であった。金曜の夜、しかも給料日あととあって、どこも賑わっていたが、今朝、改めて訪ねると、その喧騒は一切なく、そのこともまた、このさ迷い旅を決めた身勝手な理由でもある。少彦名(すくなひこな)神社と並んで神農(しんのう)さんとこの街では親しく呼ばれている薬の神様が祀ってあって、その隣にあるビルの3階に資料館はあって、大きくない。しかし、江戸(享保年間か)以来続く道修町の薬の歴史がぎっしりと詰まっている。1時間は滞留していなかったが、それ近くまでいて、二たび、通りへ。ふと、気になって、西(ホテルにはそちらの方が近い)に向かわずに、堺筋へと。
 接着剤ボンドというのは不器用なわたくしにはもともと縁の薄い存在であるが、それでも名前と存在だけは知っている。堺筋の向こう岸、道修町二丁目六番地(現在は一丁目6番9号)に周りの雰囲気とは一頭異なる「家屋」をみつけた。渡ってみると、コニシ株式会社とある。同社の沿革をみると1952 (昭和27)年に国内で初めての合成接着剤ボンドを販売したとある。コニシのボンドである。ついでに記せば、1884 (明治17)年にアサヒ印ビールを製造とあり(のちにアサヒビールへ合流)、さらに遡ると1870(明治3)年に薬種商として創業とある。展示パネル集を検めると、確かに小西儀助の名がある。ただし、明治の地図の方であり、当然ながら創業前の江戸期には存在していない。かわりに、同地には「小吉」とあるが、よく分からない。東隣が福喜、向かいは近長、料亭のような名づけでもあるが、近江の長兵衛といった屋号なのかもしれない。
[コニシ本店]※高層ビルに呑みこまれそう
コニシ新旧対照
[コニシ株式会社(旧小西儀助商店)三階蔵]※登録有形文化財である
コニシ横上
(一階部分)
コニシ横下
[前景東側]
コニシ右半分
[同西(堺筋)側]
コニシ左半分
[同裏(伏見町)側]
コニシ裏

 薬は本草(ほんぞう)とも謂う、道修町はその中心にあって、まさに艸(そう、くさかんむり)の街として、今もなお、その効能の中にあると信じたい。

 南に下がると、街はたちまち絲(イト)偏となる。丼池である。翌日、四天王寺より戻り、夕暮れどきに船場ドブイケ・ストリートを歩いてみた。(続く)