長くは現(うつつ)なるものか

 昨日、今季限りで廃される広島市民球場において最後のホームゲームが行なわれたと知った。もっとも、地元では再度、ゲームがあることを信じているし、わたくしも心情的には同意しているけれども、愚直になれば、クライマックスシリーズなどという馬鹿げた制度があること自体は支持できない。
 大阪では安土町といって本町界隈に属する土地を歩いた(27日、翌日は四天王寺辺り)。そのことについては、追々記すが、途中で、鰻屋さんにでくわして、その日はお休みであり、軒先に今月限りで明治以来続いた生業を閉じるという貼り紙があって、本日、訪ねてみた。ネットで11時からとあったので、5分前に着くと、すでに、何組か先客がいらしたが、店の方がわたくしに言ったように、注文は11時に聞きますからと言われたのであろう、皆さん、おとなしく、出されたお茶をすすっていた。
 球場も満員であったようであるが、人というのはやはり勝手で、もう明日にはないという時に、行きたくなるようである。百貨店が店仕舞いと聞くと、それまで、スーパーに鞍替えしていた人が鞍を反したり、利用者の減少が深刻で、それが理由で運行を断じようとする夜行列車が忽ち満席状態になる、前者は閉店セールが、後者は隠れテッチャンが呼び水となっているのでもあろう。
 鰻は津(三重県)に限るという、わたくしの身勝手な考えがあるから、味に関して記す立場にはない、「閉める」あるいは「閉じる」という現場の空気を吸ってみようと思っただけのことである。

[間口の狭い鰻屋さん]
 帰る頃には長「鰻」の列であった(撮影は27日)。
今月で閉店

[まさに鰻の寝床]
 27日、通りかかった方がそう仰言っていた。
鰻屋間口

 ただし、入店から退店まで所要30分というのは、待ち客(普段と変わらないお昼時の混み具合なのか、別れを惜しんで来られたのかは分からないけれども、服装から推察すると、7:3程度の割合か〜根拠はないが)が多かったとはいえ、さばかられて、焼き上げられるまで、のんびり呑もうという鰻屋さん独特の間がなくて、困り果てた。
 百有余年の家業を明日をもって幕を閉じると、帰りがけに、お店の方に訊いて、確かめた。外に出て、街を見渡すと、ここだけがポッカリとしていて、周りは再開発されたビルばかりである。長年続けてきたという現実が消えていく理由に少しだけふれた想いである。