神町へ(2)〜若木(おさなぎ)山
若木山は標高200メートル弱の小山である。この時季は枯れていて、白(雪)、黒・茶(地肌)としたさまであり、麓といえば、開拓345年を記念した公園もすべて、雪の中にある。
[作りかけのダルマ下半身(上・中央)と長靴(右下)]作り主および持ち主は何処へ?
途中、山肌にいくつもコンクリート製と思われる構築物が嵌めこまれており、堅く閉まったドアには立ち入り禁止の札もある。さらに、山に沿って進むと、表示のないモノもある。
[不思議な構築物]?炭焼き小屋か?煙突がない?
[不思議な構築物]?何かの作業小屋?
[不思議な構築物]?カラオケボックス?
[不思議な構築物]?ううむ。
後日、役所にでも電話でお聞きしようと思い、写真に納めて、若木神社方面へ、と、ちょうど、作業中の年輩の方が、わたくしの方へ近づいてくるので、長くて、重たそうな管を担いでいるのにもかかわらず、ひき留めて、お話をうかがった。
「あれは何ですか」
わたくしなりに想像していた答えをあえて、言わずに訊いた。
「防空壕だぁ」(山形語のつもり)
現在の山形空港はもとは旧海軍の基地であって、空襲も受けたらしい。東根市より南へ30キロほど下った上山(かみのやま)市に生まれた斎藤茂吉氏に「三年」(青空文庫より)という小品があり、同作は東京から逃れて故郷に疎開したご本人の回想録のような文であり、中で、そのこと(神町の空襲)にふれられている。
《それから米空軍の編隊が蔵王山のやや西方の空を通つて、神町(じんまち)の飛行場を襲うたが、日本の飛行機は何一つ手出しが出来なかつた。》(三年、青空文庫より)
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「大森山にもっと大きなのがあるわぁ」
、とここ(若木山)の北東3キロ弱にある山の名前を教えてくださった。あいにく、そこへ行くことはできなかったけれども、こんな小さな町へも米軍機は飛来したのである。
『予科練教育、特攻兵器「秋水」搭乗員の訓練の目的で東北地方に適地を探していた日本海軍が神町に航空隊の設置を決めたのは昭和十八年。昭和十九年二月工事開始、八月滑走路完成。二十年八月九日滑走路付近が爆撃され兵三十人ほど死亡。住民も三人が犠牲になった。』
以上は「若木山防空壕」というサイトにある神町飛行場の空襲についての記述である。同サイトに若木山の防空壕について、その内部画像とともに詳しい。2005年に公開された時に撮影されたようである。何でも、5年に一度公開されるそうで、機会があれば、訪ねてみようかと、2010年のことを考えている。追い払うはずの鬼さんたちに笑われそうである。さて、山の周りには16箇所の壕があるそうで、崩落の危険があるため埋め戻されたものもあるが、定期的に公開されるもの、そして、地域の祭り道具や資材を保管する倉庫として、日常的に使用されているものもある(前記サイトより)。いくつかに立ち入り禁止の札がなかったのが、それに当たるのであろうか。飛行場(現在の山形空港)からは1.5キロぐらい離れているとはいえ、ここに避難した住民にとっては、生死を分ける思いであって、その距離感はないに等しかったのであろう。山の北西麓に神社が鎮座している。もとは、山頂にあったが、飛行場の建設に伴い、砲台を設置するため、麓に遷されたともある。(もっと知ってほしい歴史より)
疱瘡(天然痘)の神様(ほうそう神)でもある。現在は撲滅されたといわれる天然痘は江戸期に猛威を振るった。「お薬博物館/薬と歴史シリーズ 第三弾」(東京都薬剤師会北多摩支部)というサイトによれば、江戸期における死因の一、二位あたりを常に占めており、その症状から、あばた(痘痕)面とも蔑称されていた。また、座頭や瞽女(ごぜ)たちは疱瘡の後遺症により失明したとも記されている。山の神といわれることもある。
[若木(おさなぎ)神社]
若木神社には山岳信仰の特徴があると、前記「もっと知ってほしい歴史」にもあった。社内にはいくつもの石像、石碑の類があり、中には「湯殿山」と刻まれた石もあった。山形といえば、出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)があり、山伏など修験者の宝庫である。神町で、最初に「こんにちわ」と声をかけてくださった方が山伏さんというのも、なんだか、それらしくて、今となっては嬉しい気もちである。
神町の住民がここに、壕を造ろう(掘ろう)と思ったのは、もちろん、生活の場から近い(避難しやすい)という実利的な理由もあったのであろうが、この杜(社)、山の神に護ってもらおうという気持ちが強かったからなのでもあろう。
わたくしにとっての「神」町が2/3程度、ようやく、終わった。
(続く)