神町へ(1)〜板垣大通り〜08年1月28日

 うっかり、事前に時刻表を確認していなかったものだから、さくらんぼ東根駅で1時間半ほど列車を待つことになった。「神町(じんまち)」駅までの所要時間はたった2分、歩こうかとも思ったが、慣れない雪道であるし、そういう無茶なことは思いとどまった。そのかわり、駅内の食堂で、ラ・フランスジュースを頼んで、ねばった。3階造りのまだ新しい駅内をほっついてみると、サクランボの木があって、温室内で育てられている。年に数回結実するそうで、よくみると、青い実がぽっこりとでている。ほかに図書館(この日はお休み)、観光案内所とともに、勝手に使えるパソコンコーナーもあって、汽車待ちも楽しく過ごせそうである。
[駅内さくらんぼの木]
 駅のチェリー画像0002
 東根市はサクランボの生産量日本一だそうで、佐藤錦という名ブランド発祥の地でもある。神町駅を降りたあとも、至るところにサクランボ園があって、中には温室栽培もあり、雪が解ける頃には実るのであろう。わたくしが、神町にこだわった理由はサクランボの粒にも満たないちっぽけなことである。神町駅奥羽本線の一駅にしか過ぎないのであるが、ほぼ隣に山形空港があって、もしかしたら、駅から飛行場を見ることができるかもしれないという、ことである。ただ、事前に電子地図をアレコレみているうちに、駅を少し南に下った場所から真っ直ぐ「東」方向を貫いている通りに、(眼が)留まった。通りの名は、「板垣大通り」といって、途中から、営団大通りと名を変える。どうしても、歩いてみたくなった。
[板垣大通り]※市街地方面を眺める
板垣大通り画像0005
営団大通り]※先には何もない・・・
営団通り画像0006
 (わたくしの頭は)単純なものだから、すぐに板垣退助かと思ったけれども、退助は土佐藩士である。東根とは、どう結んでみても、ほどけてしまう。板垣董五郎(いたがき・とうごろう)といって、東根村北方名主であり、1869(明治2)年に松前藩より500両をもって若木(おさなぎ)原60町歩の払い下げを受け、開墾を行うため移民を募り、移民には小作料免除、宅地、小屋、農具、肥料を与えるなど、全私財を投じて開墾事業を成し遂げ、板垣新田を開村した、と、東根市のサイトにある(果樹王国ひがしね宣言)。さらに、東根市立神町小学校のサイトにもあった。同校は阿部和重さんの母校でもある。引用すると、
《町開拓(じんまちかいたく)の祖(そ)は,1658年の江戸時代(えどじだい)に,当時(とうじ)の東根を治(おさ)めていた,松平下総守(まつだいらしもふさのかみ)という殿様(とのさま)に,新町(しんまち=神町の旧称)の開墾(かいこん)を最初(さいしょ)に申(もう)し出(で)たと言(い)われている,百姓與右衛門(ひゃくしょうよえもん)他(ほか),数名(すうめい)の農民(のうみん)と言われています。
 その後,すばらしい果樹地帯(かじゅちたい)になったのは,板垣董五郎(いたがきとうごろう)翁(おきな),岡田円蔵(おかだえんぞう)翁(おきな)をはじめとした,先人(せんじん)の努力(どりょく)と知恵(ちえ)のおかげです。神町小学校の教育目標(きょういくもくひょう)の一つである「たくましく」には,この開拓魂(かいたくだましい)がうけつがれています。
 板垣,岡田両翁の意志(いし)をうけつぎ,明治時代(めいじじだい)からはじまった開拓(かいたく)は,大正(たいしょう),昭和時代(しょうわじだい)になっても続(つづ)き若木(おさなぎ),営団(えいだん)という,新しい広い土地も生まれました。》(神町のMini歴史より)
 この板垣董五郎翁の偉業を称えて、その名を通りに遺したということらしい。途中、板垣神社もあり、半分ほど雪に埋もれた井戸もあった。
板垣神社](神町小学校サイトより)
古井戸](同上)
 営団というのは、今はもう、東京メトロ(地下鉄)となったが、営団地下鉄として、長く、呼ばれてきた、そのエイダンと同じ字ある。ただし、こちら(神町)の方は、営農団体の略で、開拓に活躍されたのは、もちろん、人々なのであるが、組織として、エイダンがあった。板垣大通りの先を営団大通りというのは、神町小のサイトにあるように、先ず拓かれた板垣新田、中島新田に倣って、のちに果樹王国の名を冠するまでに発展した営団(新田)の開拓を今もなお記憶にとどめるために、名づけられたのであろう。
 若木(おさなぎ)地区もそのひとつであり、実際には板垣・営団大通りの中を割って、若木大通りとある。中心集落は大通りの南側に位置し、陸上自衛隊第6師団神町駐屯地と接している。一面、さくらんぼの樹地であり、今の時季、市場にはリンゴが集まっていたが、初夏にはサクランボの実で埋めつくされるのであろう。
神町青果卸売市場]
青果市場画像0008
[ 金は 協へ]※おそらく、貯金は農協へ、か?もしかしたら、借金は農協へ、か?
金は農協へ画像0009
 若木(おさなぎ)開拓歴史資料館という小ぶりな建物が弥栄(やさか)神社の隣にあった。入口までの様子では新雪が踏まれていないので、閉館なのかと思ったが、雪を踏みしめて、近づき、中を覗いてみると、暗く、そして、室内に「この時期は農協にご連絡くだされば、開けます」といった趣旨の貼り紙があり、先ほど通った農協事務所へとも思ったけれども、お手間をとらせることもないと、あきらめた。
若木(おさなぎ)開拓歴史資料館]※手前が弥栄神社の鳥居、左奥にある神社(祠)は修復中
若木開拓館画像0011
[とおりがかりの私邸のお庭]※天上の御石が素的
他人の庭画像0012
 まだ、道半ばである。ようやく、若木(おさなぎ)山を近くに感じることができる。歩く人はいらっしゃらず、全身の力をふりしぼるように白い息を排きだしている車がタイヤをきしきし、と、軋ませながら、蛇行していくばかりである。裏通りにも、ようやく、除雪車が駆り出されている。車が過ぎると、まったく、静かなので、背後からの人の気配がすぐに分かる。(重いリュックを背負っているものだから)時機的に二度目の肩休めをと、思い、もちろん、地元の方の歩速と、わたくしのとは較べものにならないので、お先にどうぞ、という意味も込めて、角地で止まった。とにかく、若木山の麓へと思った。神町駅を降り、板垣大通りを進み始めた時に、山伏さんにお会いしている。白装束で、背には木箱を抱えていらっしゃる。それだけでも、好奇心が涌くというものである。
若木山]
若木山画像0020
 まだ、神町の一端を歩いただけである。
(続く)