壱岐殿坂そばあたり

 昨年の早いうちにお知り合いから、お蕎麦を頂いていた。「祖谷(いや)そば」といって、現在は三好市になっているが、もとは、東祖谷山村(ひがしいややま・そん)の狭隘な山間(やまあい)で育てられたのであろうか。正式には、祖谷平家そばと云う。
[祖谷之平家堂 祖谷平家そば]
いやそば画像0002

そば湯も頂ける(-。-)yu-゜゜゜]
そば湯画像0005

 ここ何週間か、ずっと、タヌキそばが食べたくて、都度、逸していたけれども、二週間ほど前、さる駅構内の「立ちそば」で食べた。美味しくなかった、輪ゴムのようなそばにはもう驚かないけれども、天滓(かす)が、滓らしくなく、どうも、天滓のための滓を作っているようで、出てきた時点で、もう、すっかり融けているし、口に入れても、「油」味しか、見つけることができない。残さず食べたが、はぁ〜という感じで、プラットホームへと逃げるように店を出てしまった。それから数日後、所用の帰り、マーケットに寄ると、珍しく、惣菜売場で、天滓を売っていた。周りには海老天(これは嫌いだけれども)、ゴボ天、野菜天(掻き揚げ)などが並んでいる。ただし、こちらには関心はなく、これらのエキスをたっぷり吸っていると思われるカスに手を伸ばした。件の頂いたそばのことを想い、そろそろ、十分寝かせた頃なので、戴こうと思っていたところであったので(賞味期限は1月15日)、今夜はタヌキそばをと、1パック50円を買い求めてきた。早速、こしらえてみた。そば+天カス、それ以外は、少しの一味(辛子)のみである。別の用途にと思い、昆布出汁を作りおいていたのであるが、出汁付きであったので、それを用いた。おおむね、徳島も西系なので、わたくしの舌に、咽喉に、合っているのだろうと、「賭けた」。
 もちろん、おそばも、お天滓も、お出汁も、美味しく頂いた。
[もはや、天カスそば?]
狸そば画像0002

 所用がてら、本郷を訪ねた。拙ブロ「あまねく」(08年1月13日付)でアズマ先生及びカナイ(カネイ)君について書いた。森林太郎(鴎外)が通っていた進文学社(舎)辺りの雰囲気を感じるために、少し寄ってみた。今は、(新)壱岐坂というのが別に、新たにできているが、その北側に壱岐殿坂はある。《東京紅團〜正岡子規散歩》によると、本郷三丁目二十七の四が同社(舎)の所在であるというので、その辺りに近づいた。もちろん、跡形もなく、探したけれども、名残りも碑らしきものもないけれど、ただ、あった(のであろう)という気配を味わいながら、しばらく、留まっていた。そのあと、(本郷区)元町二丁目という指摘もあったので(物理学校意外史〜西村和夫氏)、そちらも探してみて、それが、只今は、大横丁(町)通りにある。もちろん、こちらにも址はないけれども、気分はこちらに傾いている。
[大横丁(町)通り]※中央付近が今の本郷丁目二十七の四」
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 本日はあまり時間がなかったので、かなりのショートカットであった。湯島で降り、印刷済みの地図を携帯しているにもかかわらず、迷った。お陰で、神田明神裏道にぶつかり、坂を上ってみた。表(境内)にはお参り(詣で)の人が思う以上に居て、驚いたけれども、もちろん、わたくしはお参りはしない。裏から這入って、表から(こそこそと)逃げる、ただ、それだけのことである。「おりがみ会館」を外から眺め、御霊神社を冷やかし、社(舎)あとへと。そのついでに、三河稲荷に、すぐあとに、たまたまお参りに来られた方がいらっしゃったので、お邪魔にならないよう、境内をいったん出て、待つことに、向かいには文京区本郷交流館という施設があったけれども、見切って、二たび、参詣者の方が去るのを見計らって、お稲荷さんへと。もう、本日の与えられた時間もなくなりかけて、この先、給水所公苑というのもと思っていたけれども、またの機会にと、北(本郷3丁目方向)へ。いったん、本郷通り沿いを歩いたけれども、ちょっと寄り道し、本郷小学校付近へ。もう、ここら辺に至ると、菊坂だの、炭団(たどん)坂だの、文人たちの溜まり場である。学校の前に(お定まりのように)文房具屋さんがあって、その左隣に定食屋さんがあった。中には入っていない。VITAという、ちょうど、下校時間で、子らがたくさん居たので、冷やかしを受けるのもナンなので、遠慮がちに撮影しているため、見づらい。サイトにあったので、こちらを、どうぞ(定食屋VITA〜文京ちびっ子センター)。同サイトにもあるように、佇まいはかなり古い、もしかしたら、以前は、小学生相手の雑貨屋(食べ物、おもちゃ、文具、体操着・・・なんでもありの、お店)であったのであろうか。ヰタ・セクスアリス(VITA SEXUALISである。これは、また、いずれ。
[ヰタ(VITA)という名の食堂]
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 再び、本郷通りに戻る。
 巴屋というのは、おそば屋さんの名として多いらしいけれども、この本郷のわずか数百メートルの中(本郷通り沿い)に3軒あって、もっとも北のお店に入った。他意も、意味もない、ただ、ゆきがかり上というしかないけれども、3時も過ぎていて、少し、食べようかと思った。先客はいなかったが、あとから、3人ほど入ってきた、遅い昼食なのであろうか。齢は70代後半?、当てずっぽうなので、もし外れていたら、申し訳ないけれども、女将さんがいて、寒いですねえ、どうぞ、もっと奥にお座りくださいと、ま、それほど広いお店ではないけれども、女将さんに席を引いていただいた、ほぼ中央に座ることになった。メニューにはなかったけれども、タヌキそばを頼んだ。もう、基本過ぎて、(メニューに)載せるほどの品でもないのであろう。しばらくすると、刻みねぎとともに、お香もの(たくあん、きゅうり、はくさい)が添えられて、しずしずと、おタヌキ様がでてきた。これ(お香付き)ならば、ビールの一杯でもと思ったけれども、我慢した。
 本郷辺りには進文学社(舎)はじめ、今でいう予備校、当時の私学(塾)が多数あったという。もちろん、神田を含めてしまえば、数知れない。そのあたりのことは、司馬遼太郎氏の《街道をゆく》〜「本郷界隈」「神田界隈」に詳しいので、そちらの方で、司馬世界(ワールド)を楽しんでいただきたい。
 本日は、おタヌキもおキツネ(お稲荷)も味わった為なのであろうか、道すがら、お酒を呑まずに、隠遁した。(今は呑んでいるけれども)